マチュー

メビウスのマチューのレビュー・感想・評価

メビウス(2013年製作の映画)
4.9
韓国映画にイカれていた時期がある。
最初は例によって『シュリ』と『猟奇的な彼女』だった。ハリウッド顔負けの、強く美しいアクション映画。レトロでキュートな恋愛映画。実に健康的なすべりだしだ。『火山高』とかもあったね。ちょうど、母も祖母もヨン様に魅せられていた頃だ。僕も彼女たちに付き合って「冬のソナタ」を全話見た。韓流ブームだった。

ところで、独り暮らしを始めるようになると映画の幅が広がる。たとえば、ロマンスとセンチメンタルだけが韓流ではないと、実家のリビングのテレビでは見られないような映画があることを知りはじめる。
これもまた、例によって、なのかもしれないけれど、とにかくそのとき僕が夢中になったのは、一握りの作家たちの映画だった。そう、ポン・ジュノ、パク・チャヌク、イ・チャンドン。みんな好きでしょ?『殺人の追憶』『復讐者に憐れみを』『オアシス』とか。とりわけ僕が気に入っていたのはパク・チャヌクの映画だ。リズム、色彩感覚、ストーリー、素晴らしいと思った。
女優の名前は『リンダリンダリンダ』で知ったペ・ドゥナを除いてほとんど覚えられないんだけど、ソン・ガンホやチェ・ミンシク、イ・ビョンホンは好きな俳優になった。この人たちのために、あんまり面白くない映画も観るはめになった。

日本海をわたってすぐのところに、こんな映画が生まれる土壌がある。その発見に夢中になった。
そしてあるとき、この『メビウス』という奇妙な映画、痛みと愛と石と救済と欲と血とおっぱいとパンティと罪悪と狂気の映画をつくりだした作家キム・ギドクに出会った。それが僕の、韓国映画への熱狂のクライマックスだ。

『メビウス』に台詞はない。かろうじて聞こえる人声は息子の手術――家族が愛欲のカタストロフに堕ちるきっかけになった手術後にかすかに聞こえる「いっちゃう」という日本製のアダルトビデオの音声だ。そのほかは「ぎゃあ」とか「ちいっ」とか「あっ」とか、悲鳴であり嗚咽でありオーガズムの唸りだ。メビウスというタイトルの通り、登場人物たちの関係性はねじくれ、激しく湾曲しながらも離れられない。

「台詞がない」というのは必ずしも斬新なアイディアではないし、もともとギドクの映画は非常に寡黙だ。傑作『悪い男』も、『ブレス』も『サマリア』も『春夏秋冬そして春』も、台詞は少なかった。『メビウス』はその延長上にある。
ギドクは言葉以前にあるものを描こうとする。言葉がそれを説明するには、あまりに難しいことを。『悪い男』の主人公たちの心理。春夏秋冬が過ぎ去り、また春が来る季節と年月。

何本かの男性器と愛のゆくえをめぐる、この醜悪で見事な、メビウス状につながった悲喜劇も、言葉以前に僕らを納得させる。少年の勃起シーンをみてみよう。「勃起は愛の証である」と、園子温の傑作『愛のむきだし』は高らかにうたいあげたが、『メビウス』の勃起もまたそれを、しかし絶望的な滑稽さのなかに描き出す。一瞬、家族が硬直し、互いの潤んだ目と目と目が交わされて、その視線が何よりも雄弁に真実を明かす、百万語の台詞で語るよりも素晴らしいどんでん返しだ。

この映画の「台詞がない」というのは、たとえば今年公開されたウクライナの傑作映画『ザ・トライブ』のように、舞台が聾学校ゆえにみたいな必然性のあるものではない。これは様式、方法論だ。
切断、新しいオーガズムの得方、レイプ、ナイフ、どんでん返し、近親姦、ピストル、祈り、家族――いびつなメビウスの輪を描くのに、ギドクはひとつの方法論として「台詞がない」を選んだのだ。

『アリラン』あたりでギドクを追うのは何となくやめ、『悪魔を見た』とか『哀しき獣』とか『息もできない』みたいなきらめく作品群はあったけれど、洋風にソフィスティケートされた『スノーピアサー』とか『イノセント・ガーデン』にいまいちノレず、イ・チャンドンの清潔な光のような映画を別として(彼がプロデュースした『私の少女』もとてもよかった)、ほとんど韓国映画への熱狂が冷めた今の今、なぜか『メビウス』を借りて観た。そしてこれを書いた。

なんか目が覚めたみたいな気がするよ、ギドク。また『悪い男』借りて観ようかな。でも、何しろ「玉ヒュン」どころじゃない、すっごく痛くて緊張感ありすぎの映画だからね、0.1ポイント引くよ。