Eryyy678

沈黙ーサイレンスーのEryyy678のレビュー・感想・評価

沈黙ーサイレンスー(2015年製作の映画)
4.8
17世紀。
日本で消息を絶った、キリスト教イエズス会のフェレイラ神父を探すために、日本へ渡るイエズス会司祭のロドリゴとガルペ。
彼らは日本人協力者″キチジロー″の案内で長崎へと潜入する。

二人はその地で、おぞましいキリシタン弾圧の光景を目撃する。
火炙りにされる者や、波打つ海の中、十字架上に磔にされ処刑される信者達。中でも「穴吊り」という拷問は特に恐ろしい。

無惨なキリシタン弾圧を推し進めるは、長崎奉行″イノウエ″
好々爺な風采の中に潜む容赦のなさと、冷淡さ。粛々とキリシタン弾圧を推し進める、この作品における恐怖の象徴のような存在。

「お前達が彼らに苦しみを押し付けた。キリスト教国日本という身勝手な夢で デウス(神)はお前らを通じて日本を罰している」

司祭(ロドリゴ、ガルペ)を守る為に犠牲になる、日本人キリシタン達。
そんな彼らの苦しみの叫びは、神に届いているのか。
「天にまします父よ、私はわざわいをもたらす異国人」
神父が抱く、神への疑念。

神を信仰しながら、生きる為に神を″裏切り″懊悩するキチジロー。しかし自らの弱さに抗えないことは、はたして「罪」なのか?

″フェレイラを探して″
放浪の末、ロドリゴが見たフェレイラ神父の真実。かつての師の姿に、ロドリゴは何を思う?
「日出る国」が見せる現実は、カトリック司祭達にとっては残酷な現実だった。しかしそれは、日本人にとってはまた真理なのである。

神は苦しみを与えるのか?
信仰とは?
神は死にゆく彼らの祈りを聞いた。
でも叫びは聞こえたか?
苦しみの叫びが、声が轟く時。
それでも神は″沈黙″を続けた。

信仰とは何か?救いとは何かを問うた、実に考えさせられる映画でした。

″沼地では何も育たない″

この映画には所謂、劇中曲というものが存在しない。聞こえるのは、風の音や虫の声といった「自然」の音のみ。そこには「自然」の中に神を見出した日本国というものが、あえて音楽をつけないことで、暗に描かれているような気がします。
キリスト教の唯一神、すなはち世界(メタ的には映画)の創造主が介在出来ない世界(日本)を、音楽を排除した「自然」の音のみで描写することによって、古来の神話世界と共に生きる日本を、映し出した。
そこには唯一神を信ずるキリスト教の入り込む余地はない、とでも言うように。
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