こなぱんだ

沈黙ーサイレンスーのこなぱんだのレビュー・感想・評価

沈黙ーサイレンスー(2015年製作の映画)
3.5
スコセッシの技ここに極まれり、という映画ではないでしょうか。

スコセッシは恐らく「映画」というシステムを使って「神」を作り出し「隣人」を作り出したかったのかしら……

冒頭から、最後まで、とにかく「キリスト教弾圧」の映され方がすごい。迫力もあるし、とにかく悲惨で、本当に惨い映像ばかり。そんな映像に映っている登場人物たちは、「キリスト教」的な「父」なる「神」を信じ続けます。

ですが、そんな信仰むなしく日本の幕府に見つかり、見せしめに合う。
そのなかで登場人物たちは「神はいないのか」ということを痛々しいまでに問い続ける。

昔からあるテーマというか議題だと思いますが、「神は全知全能であるのか」、もしくは「神は全知であって全能ではないのか」。もしも「神」が「全知全能」であるならば、如何にしてこのような惨い苦しみを受けなければならないのか。ただ「神」を信じていると言うだけで。

ここに、遠藤周作から得たヒントを元に作られたスコセッシによる「沈黙」の、ひとつの答えがあります。「神は全知である。だが、神は全知であるがゆえに沈黙し続ける」

この映画において、登場人物たちは悩み、苦しみ、「神が存在するならばどうして助けてくれないのか」と嘆き続ける。そして、それを「神」は見ている、とされる。この映画の最後において、その種明かしがなされます。主人公が桶のようなものに入れられ、果たして彼は「本当に」「キリスト教的神」を「捨てた」のか?

その問に答えるかのように、「彼の心は、神のみが知っている」というナレーションとともに、普通ならば「見る」ことの出来ない桶のなかに小さく折りたたまれた彼が映っている。彼の握った手には、十字架が握られている⇒ここで、画面を「見て」、その事実を知っているのは、私たち「観客」だけなんですよね……

登場人物がどんなに嘆き悲しもうとも、私たち「観客」は彼らをひたすら「見る」ことしかできない、「全知」の「神」であることが、映像的に示される。

その意味で、スコセッシは本当に「綺麗」
な「構造」を撮る数少ない監督だと思います。まあでも、ここまで「綺麗」な「構造」で撮られてしまうと「そうなんだ~」という感想だけになってしまうから、やっぱキングオブコメディの方が好きだったなあということで3.5。
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