クリ

シーヴァス 王子さまになりたかった少年と負け犬だった闘犬の物語のクリのレビュー・感想・評価

4.3
何と強固な映画か。
トルコ東部の広大な大地、学校の学芸会の王子役になりたかったが村長の息子に奪われ不満を抱く少年アスラン。
この序盤のシークエンスを観たとき、子供の頃、演じる役が同時にその集団での序列であるかのような風潮があり、いや、序列があって役が決められると言ってもいいが、格差社会は幼い頃から自分たちの中に染み込んでいるのだと改めて人間の卑しさに呆れたし、少年を人事のようには観れなくなった。
このキアロスタミ的であり、しかし明らかにそれより図太い少年からこの映画は始まる。
アスランは地元のドッグファイトをその目に焼き付け、敗北を喫した闘犬、シーヴァスに心惹かれる。
このシーヴァスの言葉を持たぬが故の圧倒的な存在感と人間など知ったことかと軽くいなすような風格が凄まじい。
それはもうアスランが「飼いたい」と通学を拒否して、シーヴァスにぞっこんになるのも当然で、確かに白雪姫役のアイシェや友人たちの気を引ける、大人に近づけるという思惑はあっただろうが、シーヴァスの自らの人生を受け入れ無駄に抗おうとせず、どこか悟ったような大きな佇まいが彼の何かに触れたことは間違いないだろう。
この映画の画は基本的にアスランの目線に合わせて撮られているのだが、このドッグファイトのシーンは特にその選択が効を奏している。
子供から見たその凄まじい迫力を、スピードに乗った激しいカットの連続と接近したカメラワークで画面に叩きつけている。
この後の、リベンジマッチの臨場感も同様だ。
そして、闘いに勝利したアスランとシーヴァスを待ち受けるのは大人たちのさらなる思惑。
これに反逆するアスランの演技は、とても少年とは思えない迫力がある。
大人たちに石を投げつけ、シーヴァスを売るなら自分の服も売ったらどうだと、自らの衣服を脱ぎ捨てるところなんかは感涙ものだ。
結局、アスランのものとの名目でシーヴァスを闘犬として最強の名誉を手に入れるため、大人たちは大会に出場させる。
そこでのドッグファイトのカメラワークが前記の2つとは異なるところに注目したい。
カメラは闘犬たちの闘いを写すことなく、アスラン含む周りの人間たちの殺気立った姿を延々と写し続ける。
画面外で、相手の脚を折り勝利したシーヴァス。
ア怪我を負った闘犬を心配するアスランだが、大人たちは気にするなとシーヴァスの勝利に更なる欲を見せ始める。
アスランはシーヴァスの闘犬としての行く末を想像してしまい、もう闘わせないと口にするが、大人たちは闘犬が闘わないでどうする、犬は結局犬だとアスランの考えの甘さを指摘する。

車内で流れゆく景色を黙って見つめるシーヴァスの眼には何が見えるのか、彼らは今はただ現実を受け入れるしかないのか。
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