さわだにわか

高麗葬のさわだにわかのレビュー・感想・評価

高麗葬(1963年製作の映画)
4.0
オープニングのクレジットがかっこいい。漢字とハングルの混在文字が経文みたいに画面いっぱいに広がって、そのうち特定の文字列だけを残して他の文字が画面から消える。それがスタッフ・キャストのクレジット。それから再び画面を文字の羅列が覆って、その時には一度出た文字が別の文字に変わる。これで別のスタッフ・キャストを表示する仕組み。それを儀式の太鼓のリズムに合わせて何度も繰り返す。

ゴダールみたいでもあるし『マトリックス』みたいでもある。アナログでありつつデジタル。観終わってから振り返ればこのスタイリッシュなクレジットがたいへん象徴的な映画で、アバンタイトルは現代での人口問題に関する討論会、そこで出たパネリストの「昔は姥捨ての風習がありましてね〜」という発言から本筋に入っていく『雁の寺』の逆パージョンみたいな感じなのですが、そこからあのクレジットは何かと考えるとおそらく画面を覆う文字全体を社会として、その中の一文字一文字を社会の中の人間に見立てている。

人間なんてしょせん記号だし社会を維持するためのパーツでしかない。生産と消費のバランスが崩れたら不要なパーツを切ればいい。どうせ記号だから妻なら妻、夫なら夫、子供なら子供と、その記号を背負う人間が欠如したらどっかで別の人間を買ってきてその代わりに収めればいいだけだ。女は子供を産まなければ価値がない。男は労働力にならなければ価値がない。こういう冷徹な世界把握がこの映画にはまずある。

そんな残酷な社会をどうして正当化できようか、っていうかそんなの維持する意味あるんだろうか、ということでこの残酷村の村人たちは神の力を借りることになる。飢饉なんかの問題が起こって人口調節を余儀なくされると神事で解決。とりあえず神の意志ということにしておけば口減らしする方は自分は悪くないって言えるし、口減らしされる方もこの辛い世の中から開放されて神様になるんだ、ぐらいな感じでその死を納得できるのでよいシステム。

のはずだったのだが、皮肉なことには巫女を通して語られたその神の意志を遠因として残酷村は崩壊に向かっていくのだった。飢饉が極限に達してだんだんと村人たちは神を信じることができなくなってくる。それは今まで神の意志だと考えられてきた残酷村の存続に村人たちが意味を見出すことができなくなる致命的な事態である。

社会の存続に意味を見出せなくなる時には剥き出しのエゴイズムが現れる。神の言葉は社会から切り離され個人の願望充足の手段に成り下がる。いつしか残酷村の残酷だが平等にして厳格なルールは放棄され、個人の欲望に基づく暴力支配がまかり通るようになるのだった。そして神の死と個の自立の先に待っているのは冒頭の人口調節討論会なんである。

ざっくり、前近代社会の内包する近代性がその社会を内破に導くお話と言えるだろうし、アバンタイトルの現代パートでも人口調節が議論されているように、前近代を乗り越えたように見える現代というのも、実は前近代的な論理や心性を軸にして回っているのだと皮肉った映画とも言えるかもしれない。
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