きゃんちょめ

イット・フォローズのきゃんちょめのレビュー・感想・評価

イット・フォローズ(2014年製作の映画)
3.8
【イット・フォローズについて】

イットが性病のメタファーであるという解釈があるらしい。性行為に対する後ろめたさもあるのだろうし、性交渉によって伝染する恐怖はまさしく性病として解釈するのに打ってつけだろう。それに、ホラー映画としてみたいのなら、この解釈のほうが楽しいに決まっている。それも可能だろう。宇宙人という解釈も、人類発祥以来ずっと人間と共に進化してきた寄生生命体という解釈もいいかもしれない。

私の解釈は違った。これは性についての映画ではなく、生についての映画であると思う。劇中における、T.S.エリオットの引用とドストエフスキーの『白痴』の引用も念頭に置くべきだろう。

それに、これは伝染する恐怖を描くが、死を恐怖と捉えてしまうのは、観客が死を受け入れたくないからではないか。死は伝染するようなものではなく、全員がもう既に感染しているところの宿命だと思う。

性交渉によって死が見えるようになっているだけで死にはもう既に全員感染しているのではないのか。

性行為には、ただ楽しいからではなく、本当は死から逃れるためにやっているのだと思わせる側面もあるのだと思う。死を意識させる側面があると思う。

フランス語でオルガスムスのことをla petite mortと呼ぶと辞書に書いてあったがこれは「小さな死」という意味である。

現に、性行為によってイットが追いかけるターゲットが変わるだけで見えなくなるわけではない。性行為の相手が死ねばすぐに自分が追われることになるから、少し死が遠ざかったに過ぎないのである。

また、次々と各人がいろいろな人と性行為をしていけば、全体としては死が免れるが、各人の性行為が滞ると全体の存続が危うくなってくるというのは、生命体に課されている制約そのものに見えた。

これは、本来的な生についての映画であり、本来的な生であるからには、死についての映画であると思う。そして、死から逃れるためにはどうしたらいいのか。

なぜ、イットは、グレッグを殺して、その死体の上で腰を振るのか。イットはグレッグの生命を吸い取って終わりを迎えさせるようでいて、しかし同時に、生命を与える始まりをも暗示している。生命を奪いつつ、しかしその存在ゆえに、また別の人に生命を与えもするのがイットなのだ。

最後のシーンで、死がうしろから付いてくるスピードと、2人が歩くスピードはあまり変わらないように見える。なぜだろう。

我々の全身の細胞は絶えず耐用年数が来て、滅びているが、しかし生命はそれに対抗して新しい細胞を絶えず作り出している。この崩壊と生成の速度が釣り合っているからこそ現在の我々は存在しており、実は我々の生活というのはこのスピードのバランスが少しでも崩れれば消えてしまうのである。崩壊速度が速すぎれば老化するし、生成速度が速すぎればガンになる。

ラストシーンの2人は手を繋ぎ、畏れてはいるが恐れてはおらず、歩いていく。彼ら2人の少し後ろに、まったく同じ速度で追いかけてくる「死」がみえる。そしてそれを彼女たちは知っている。2人は生の輝きの絶頂であるセックスを経たせいで、死が見えるのだろう。

自らの有限性を死によって告げられているのだ。死の直前の男についてのドストエフスキーの引用は、ここについての伏線だったのではないか。

彼らには自らの死が自覚されたのではないか。いつ死ぬかもわからないという在り方は別に不思議な在り方ではなく、そもそも全員そうではないのか。この映画館を出たら死ぬかもしれないのが人間であるような気もしてくる。

この映画内世界の巧みな設定によって、男にとっての生殖は、愛する女のために死ぬことを引き受けることとセットになる。そのようなポールの覚悟を愛と呼んでもよかろうが、グレッグにはこの覚悟がなかったのではないか。グレッグはセックスを死との関係のなかで捉えてなどいなかった。

それと対をなして、この映画において女にとっての生殖は自分(または自分の遺伝子)の存続のために、他人をひとり犠牲にすることとセットになった。アニーには、この覚悟がなかったに違いない。ジェイはそうではなかった。

ラストシーンを見て、女は究極の場面において、生命の存続のためならば男を利用してもいいような気が私にはしたが、どうなのだろうか。私はそういうふうに考えていた。
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