あゆみ

サウルの息子のあゆみのネタバレレビュー・内容・結末

サウルの息子(2015年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

スコアをつける事にほとんど意味がない映画だった。凄い映画はほんのワンシーン見ただけでそれが分かるらしいけど、始まって、何にもピントのあってない画面の奥にサウルが現れて、どんどん近づいてきたサウルの顔が大写しになったそこに初めてピントが合ってカメラが歩き出す30秒くらいで、これは自分を圧倒する映画だという事が分かる。視点はほとんど早足で行ったり来たりするサウルのぴったり後ろにあって、大写しのサウル以外ピントがあってなくて、引きずり回されるような主観的な没入感がすごいんだけど、サウルが見たくないものを選択的にぼかしている視界だけじゃなく、聴覚も、サウルがハッとして聞いている音(息子の咳とか)は離れていても大きく聞こえたり、サウルが心抉られてる音(ガス室の扉を内側から叩く音とか)は感覚全部を埋め尽くすくらい大きかったり、すごく主観的で、臨場感がものすごい。

ユダヤ人一人を部品ひとつとして扱え、ていうナチスの台詞があったけど、殺戮からその後処理からシステム化がすごくて、本当に処分という言葉がぴったりで、処分する側にもされる側にも人間性がどこにもない。この規模で、一人の人間が歩き回って見えるだけでこの数の人間が関わっていて、その人間にみんな人間性がなくなってる事に、最初は恐怖を感じたけど、あまりにも理解を超えていて「なんでこんな事になったんだろう?なんでこんな事が起きたんだろう?」と途中で呆然としてしまう。ユダヤ人も、ゾンダーコマンドも、ナチスまで、みんな物になってしまったみたいだった。自分たちの酷すぎる所業と自分の心を切り離して物みたいになった人間が、相手を人間と認めると心がおかしくなるから物みたいに扱い続けて、その状態に麻痺する、という事なら理解できる気もするけど、だからこそ、医務室で見つかったサウルの辱められ方が、相手を心あるものと知っていてその心を折ろうとするような、『人間としての扱いの最下層』みたいな感じがして、人間扱いしているのに部品みたいに殺す、という要素の複合に耐えられなくなって、そこが一番おかしくなりそうだった。

殺されるユダヤ人は、生きてる時も殺される時も死んだ後も徹底的に部品としてしか扱われていない。サウルが必死に正しく埋葬しようとするのが、本当は自分の息子ではない、全然関係ない他人だからこそ、それは殺されてなお人間性を奪われているユダヤ人みんなに対するお弔いになるのだと思う。尊厳を全て奪われた膨大な死者に対する弔いと、生者が生き延びるための蜂起の計画、どちらにより人間的な価値を認めて優先させるかは、生きている者には現在や未来があるという事を踏まえたとしても、軽々に判断ができない。もちろん歴史的な背景や事実を抜きにはできない映画だけど、目に映る人全員人間性を失っているような極限状態で、とどのつまり人間性とはなにか、人間とはなにか、と考えさせる普遍性みたいなものもあると思う。

あまりにも乱雑に扱われる人間を見すぎて心がやられて、乱雑な扱いの物を見るだけでつらかったので、映画館の外に散らばった捨てられた傘袋を拾って歩いた。できる事なら梅田に落ちているゴミを全部拾って帰りたかった。
あゆみ

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