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湯を沸かすほどの熱い愛(2016年製作の映画)
3.6
 栃木県足利市、空に立つ1本の印象的な煙突からは煙が出ていない。銭湯の前に貼られた「湯気のごとく、店主が蒸発しました。当分の間、お湯は湧きません」という墨で書かれた達筆な文字。ベランダで洗濯物を干す幸野双葉(宮沢りえ)は娘のスポーツブラを見て、まだ大丈夫と言い聞かせる。朝の食卓ではパジャマ姿の幸野安澄(杉咲花)がぼんやりとテレビを眺めている。「食べるか見るかどっちにかにしなさい」と窘められた安澄は箸を置くと、双葉はリモコンでテレビを消し急かす。テレビを見る娘のお団子を作る双葉の姿は、母親と娘の数少ないコミュニケーションの機会になる。玄関先の花に水をやる最中、安澄は突然、学校を休みたいと言い出す。後ろ向きな娘を鼓舞するように、途中まで後ろに乗っていく?と差し出す自転車。思春期の安澄は母親との2人乗りなんて恥ずかしいとその申し出を拒否する。1年前に父親である幸野一浩(オダギリジョー)は「1時間ばかりパチンコを打って来る」と言い残し、銭湯の仕事を投げ出して蒸発した。それから双葉は1人娘の安澄と2人きりの生活を送っていた。日々の生活の足しは双葉のパン屋さんでのアルバイト代だけで、日々の生活は苦しい。そんなある日、バイト先のレジ打ち中に双葉は倒れる。精密検査の結果を待つ中、医師は双葉に厳しい病状を告げる。

 もし医師に余命数ヶ月と言われたら私たちは一体どうするか?ステージ4の末期癌、もはや手の施しようのないところまで転移が見られると突然告げられた双葉は真っ暗な銭湯の片隅に蹲る。だが次の瞬間、お腹を空かせた娘からの電話に出る彼女の声は気丈にも堂々と母親をしっかりとこなす。「お母ちゃん決めた、安澄のために今から超特急で帰って、美味しいカレー作るから」少し頼りない娘を慮った母親の言葉に思わず涙が溢れる。人生の残り時間はあと2ヶ月、果たして自分に何が出来るのかを逆算し、活発にフットワーク軽く終活に励む母親の姿は強く気高い。それに対し、夫の一浩(オダギリジョー)の描写は心底最低で、その存在感は空気よりも軽い。自分が神様だったら、明らかに母親を残し、この父親を真っ先に天国に送りたい思いに駆られる。そんな心底ゲスな父親役をオダギリジョーは水を得た魚のように、飄々と演じるのが憎らしい。双葉ほど残酷な境遇には置かれていないが、安澄もスクール・カーストという名の陰湿ないじめに遭っている。それは実の母親の甘い言葉を信じて健気に待つ鮎子(伊東蒼)も同様である。双葉、安澄、鮎子、それに後半重要な場面で登場する酒巻君江(篠原ゆき子)も女性陣はそれぞれが重大な問題を抱えている。対して一浩を筆頭にして、向井拓海(松坂桃李)や探偵の滝本(駿河太郎)の存在感の希薄さは女性上位時代の現代を象徴する。

 率直に言って今作の脚本は商業映画を10本20本撮ったベテランに相応しい力量の要る物語構成である。それを撮ったのが今作が商業デビューとなる若手・中野量太氏だと聞いて素直に驚いた。登場人物のほぼ全てが家族から切り離された精神的孤児だが、双葉の死の匂いを契機とし、それぞれが最高の疑似家族の一員を演じる。煙突の煙は生の要素を多分に担うが、私がそれよりも感心したのは家族の食卓を毎回まったく違うレイヤーで登場させたことに尽きる。導入場面では双葉と安澄だけだった幸野家の寂しかった食卓が、双葉の病気を契機に1人また1人と賑やかな食卓を取り戻していく。現代日本では核家族化が深刻な問題として叫ばれる中、今作の奇妙な連帯はその傾向とは真逆を行き、各々は結果として美しい繋がりを見せる。中野量太の脚本は映画的必然性よりも、むしろ商業的な妥当性との折り合いを考えた上での決断だったことは容易に想像がつく。それゆえの向井拓海(松坂桃李)であり、探偵の滝本(駿河太郎)であることを重々承知の上であえて言うのならば、むしろ彼ら血縁のない関係性をバッサリと切り捨ててでも、双葉と一浩の夫婦関係にもう少しフォーカスしても良かったはずである。1時間程パチンコに行くと言って出て行った夫が1年間蒸発したことを母親としてではなく、妻としての双葉のわだかまりを通して描き出していれば、クライマックスへ向けた下地は出来たはずである。もともと痩せ型である宮沢りえのクライマックスでの更なる追い込みには女優魂を感じ、涙が溢れた。中野量太の映画に対する真摯な思いが素晴らしい。
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