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金星人地球を征服のmasatのネタバレレビュー・内容・結末

金星人地球を征服(1956年製作の映画)
3.0

このレビューはネタバレを含みます

10セントも損はせん!をモットーとした必殺若手才能搾取人ロジャー・コーマン。
しかし、彼も若い頃は監督として、カツカツの中、工夫とアイディアと意地で、策を巡らせた作品を産んでいた。

50年代初めにジョージ・パルらによって拓かれたSF映画というジャンルは、
宇宙に行き、宇宙から来て、そして地球の危機と崩壊を、一気呵成に描いた。
それは今日に至るまでのこのジャンルのベース、礎を築き上げるに至った。
1956年は、それらが順調に進化し、禁断の星へと向かったり、人知れず侵略されたりと、未知への、未知からの接触がより高度化して、観たことの無い冒険を提供していた。
そのSF映画絶頂の渦中に、金星人が地球を手に入れようとする物語が、ハリウッド・スタジオの裏の空き地で、話題のSF映画群の20分の一の金額で四苦八苦!
それが“駄菓子”の様なドライブインシアター向けの本作である。

金がないから、スタジオセットから肝心の金星人の造詣に至るまで、チャチい。
特に、満を辞して登場の金星人がハリボテ感満載で、ダメさ加減は尋常では無いが、今となっては、どう思い付いたのか不思議な程の独創性すら感じる。
この宇宙からの物体の礎があってこそ、その後の今に至るまでの宇宙生物のバリエーション、その幅の広さへと繋がっているのである。
そのバリエーションの極北に位置する造詣に表れているように、我らのコーマン先生の作品は最北端に位置する、そんな異彩を何をやっても放っていた。

本作で一番驚くのは、惜しげも無く人を殺すわ殺すわ。主要キャストの大半を都度都度殺す。そのヴァイオレントな不道徳さが、ドライブインシアターに集う不良たちにマッチングした事は言うまでも無い。
観ている側が安全に、人が死ぬのを(愉しんで)観る。これは映画本来の醍醐味である。その事を、映画の見せ物性、不道徳の愉しみを良く知っていた、コーマン先生は。

そして、脚本の工夫を惜しまない姿勢は素晴らしい。アイディアと、予算から発する最低限の見せ物を準備する物理とを、巧く計算していく鋭さが全編を貫いている。

宇宙から来る、というカテゴリーにあるプロットの侵略者は、この頃になると、人間側にも味方をつけ、その人間を媒介者へと仕立て、巧妙に人類へと近づいていくのだ。その媒介者、人類の幸福の為に裏切り行為を敢えて行う、そんな複雑な感情をリー・ヴァン・クリーフ博士が、男っぽつく演じている。

また、ここでも、感情が失われ愛が消え去ることへの、人間性喪失への異論を女性が唱えている。
同年の『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』とのリンク、いや、パクりか!?

軍の科学施設の門番だった(我らがB級俳優)ディック・ミラーは、いつの間にか部隊長らしい佇まいとなって金星人討伐へと邁進するが、何も出来ず・・・役に立たないが説得力のある顎の骨格こそ、ミラー。良くも悪くも、彼の俳優人生が始まっていた。
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