ガンビー教授

レディ・プレイヤー1のガンビー教授のレビュー・感想・評価

レディ・プレイヤー1(2018年製作の映画)
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こういう緩い映画ももちろん好きで、一観客としてペンタゴン・ペーパーズほど見ていて興奮するというわけではないのだけど、しかしやはりこのような(地のスキルがしっかりとしているので安心できる娯楽作)映画を年に数本はみたいなと思うのも当然のことで、結局のところペンタゴン・ペーパーズのような映画もレディ・プレイヤー1のような映画も撮れるスピルバーグは至高だという結論に落ち着きそうである。

夢の未来っぽい謳い文句のその実ディストピア世界、みたいなものを描かせたら右に出る者がいないスピルバーグのこと、これは見る前から期待していた要素だったのだけどディストピア描写がたまらない。しかも、私たちが暮らしているこの社会が進んでいった先に確かに待ち受けていそうな実感があって、たいへん嫌。めちゃくちゃ嫌だ。

無数のポップカルチャーが引用されていて、なんで80’sネタばっかなんだというツッコミももちろん出来ようが、まあ野暮だろう(ここからは想像だが、たぶんこのパラレルな世界の人類はそのあたりの年代から新しいコンテンツをクリエイトすることを自然にやめてしまったんじゃなかろうか? という疑惑が湧いてきて、そのへんも含めディストピア感)。で、その引用のされ方はめちゃくちゃ無節操でとりとめがない。必然性もないしその場面に登場する意味とかはない。たぶんその一つ一つに「引用の正統性」とか「文脈の理解」とか求めても意味がないし、求めるべきではない。なぜなら文脈とか正統性とかをぶった切ってただひたすら自己模倣的にポップなアイコンというものが引用され尽くして、総体を見極めきれない混沌が極まっていった先にあるのが、我々のこの現行カルチャーが発展していった結果としてもたらされる未来にほかならないからである。

で、たぶんこういうカルチャーの一つ一つに愛のある人が本作を手がけていたらきっと、それはそれで見応えのある作品になっただろうし、「分かっている」「分析しがいのある」「真に現代的な」といった形容で語られるような映画になったかもしれない、しかしその実、流行り物のような形で消費されていく何かが出来上がっていた可能性も否めない。

一方で、愛はないかもしれないがその距離感が不思議な批評性みたいに見えてくる、どこか虚しさも伴った本作の混沌ぐあいを見ていると、やはりこちらのほうが「真に現代的な」映画なのではないか、という気がしてくる。だからこのような緩い映画からであっても、スピルバーグという「作家」がまさしく現役であるということ(ほかでもなく現代の作家であること)をどことなく感じさせられる。
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