ニューランド

あの家は黒いのニューランドのレビュー・感想・評価

あの家は黒い(1963年製作の映画)
4.6
☑️『あの家は黒い』(4.6)及びシーデル・ベイザイ・サレスらの短編群▶️▶️
いうまでもなく、イラン映画史上の最高作。パゾリーニ『マタイ伝』(『奇跡の丘』)を数倍上回る力を持っている。だが、本作は映画史に模倣や影響を生み・与える事はなかった。映画作品として、形を残してないからだ。これを方向・流れを持ち、余波を与える作品と呼べるのか。たしかに、反復され行戻りするカット内移動や全体の構成、隣接時空間や大きく間がある筈のものの力強く鋭さこの上ないモンタージュは存在・確立されている。しかし、それは何の効果・帰納ももたらさない。表現ではあるが、これは映画的現実であり、表現的現実である。相互の関係を拒み、位置付けを拒み、永遠に存在が終わらぬ・消失しない。
これ程感情を排して、撮られることに抵抗・こだわりを持つ人たちの顔を羅列、画面に打ち込み続けた作品もない。教育の場や、日常の奇異か困難な移動、真情の吐露も、先に延べた強いデクパージュの力を備えて描き続ける。そこではナレーションが読み上げる、前半の神の御心の受け入れの親密かつ荘厳さも、中盤の当時の社会・科学通念による展望の確かな存在も、後半の神への留まらぬ呪いや動物的姿勢も帯びた訴え連綿も、落差が存在しない、おなじ判断の入り込めない黒い力を放つ・定着を拒む。
そして(揃っていない16ミリプロジェクターを新規範DCP化が上回ったせいもあるが)極めてコントラストの強い接写連打や縦の図のどんでんめの図自体の圧巻と同等に、時系列や配置地理を遡り飛び大胆に楔的に打ち込まれるモンタージュや、地球を捻りこむ移動も、捉えられる図内のハンセン病患者自体と同質のインパクトを持つ。もはや、映画として分解・分析不能の眼前から動かせず密着を解いてくれない存在となりきっている。
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映画も世界的にゴダール・レネらの(広義)ヌーヴェルバーグ、ブラッケージ・メカスらのニューアメリカンシネマが席巻の、世界的価値観変動の60年代、イランでも同じ気鋭の作家らが、極めて斬新な作品を発表し、映画を変えていった。K・シーデルの『女性刑務所』『女性区域』『テヘランはイランの首都である』『雨が降った夜』、B・ベイザイの『髭のおじさん』、N・タグバイの『放つ』、S・S・サレスの『白と黒』といった異色短編が今回の企画でも上映された。シーデルはイランの隠された暗部(女性や子供への歪み、刑務所・貧困・売春・報道と政治)にことさら突っ込んでゆくルポルタージュを試み、どす黒い現実の力とそれに対する同等のアイロニーに満ちた手法~移動長回しは取調中の声の主らに似た位置の人間らを捉え続けなかなかそこへ辿り着かなかったり・立場による証言の(真反対の)食い違いを軽快にかつ鋭くクロスモンタージュしてゆく~が光り、ベイザイはボール取返しに懸命な腕白少年らと拒む容貌も性格も奇怪なおじさんとの攻防をマル『~ザジ』を上回る映画一般を逸脱した器械体操的運動感・開放感で描いてゆく。只それは、サレスの澄んだ抽象性と社会に密着した才気を除けば、ハイレベルも映画的才気に留まりまた本道の表現の先鋭化にストレートに貢献しており、本作の持つ地響き的訴求力は所謂映画史とは無縁に近いものだとわからせてくれる。
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