深い映画だった。
サルトルの『嘔吐』を彷彿とさせる精神病者の記録のようである。
この映画を見たものは、強烈なめまいを感じるだろう。
Amazonプライムビデオで無料で見れるので、なにげなく再生しただけだったのだが、これほどの衝撃を受けるとは思わなかったので、この批評を書いてしまっている。
僕は自分の書いた文が醜く、あまりにも滑稽に見えるせいで、もう批評など書かないつもりだったが、この作品が私をこの蛮勇に踏み切らせた。素晴らしいとしか言いようがない。
映画は正しくない。私は、正しくない映画を探している。なぜなら、正しくない結論でしか訴えられない人間の精神があるからだ。僕はこういう映画作品を見たくて映画を見ているのだ、と声を上げたくなるような映画である。
人形劇であるということをこれほどうまく使った映画はない。
彼女が、そして彼女だけがanomaly(変則的)で、自分以外の人間の声で聞こえる。誰の声もみんな自分と声優が同じで、彼女の声だけが自分を癒してくれる。
しかし、次第に彼女の声は聞こえなくなっていく。いや、聞こえなくなるのではない。自分の声が、彼女の口から聞こえ出すのだ。
こんなに恐ろしい表現が他の映画で観れると思ったら大間違いである。
些細なシーン、なにげない会話、普通ならカットするシーン。それらすべてを映像にすることで、人形劇の作り物感が、逆に強調されている。どんどん世界がハリボテのようなものに見えてくる。そして実際に、自分の顔の表情を作る部分が、ポロリと顔から剥がれ落ちる。
風呂上がりに、主人公が、自分は人形劇の人形なのではないか、と確信してしまうシーンの恐ろしさと言ったらない。
衝撃的なのは、ラストである。自分の誕生日のために集まった友人たちが誰1人、認識できない。友人たちが誰だか分からない。妻から、「あなたは誰?」と言われる。答えられない。主人公は座りこむ。
講演会において、彼だけが真理を語っている。しかし、彼は完全に狂ってしまい、完全に壊れてしまっているようにしか見えない。
タクシーの中での、運転手との恐ろしいほど空虚な会話と、エンドロールで背景の無限の話し声の中、悲しく響く歌をしっかり聴いてほしい。この映画は人間を描いている。
彼の病んだ心にとっては、全てがハリボテなのだ。この結論は間違っている。しかし、映画とは間違っている人の心の中を見に行くものだ。
人間という存在者の深淵をあえて覗き込み、傷つき、そしてショックを受ける。これぞ映画である。