波鳥知己

西部戦線異状なしの波鳥知己のレビュー・感想・評価

西部戦線異状なし(1979年製作の映画)
5.0
こちらはデルバート・マンが監督。

テレビ映画として製作されたものだが侮るなかれ、本編尺157分の大作となっている。金曜ロードショーのように、テレビ放送だからといってコンパクトにしていないのは、本作のプロデューサーであるノーマン・ローズモントが「映画よりも長尺で原作へ忠実に映像化することが可能となったことに勝算を見出した」(p.3 ☆1)からとのこと。確かに重厚感のある物語になっている。

ファーストシーンでは塹壕の中に隠れる主人公のポールら若き兵士を1カットの長回しで紹介する。これはお茶の間への分かりやすい人物紹介という印象を受ける。しかしこの〈顔〉の提示が、彼ら一人一人に名前があり、叶えたい夢があることを改めて認識させる。彼らは「戦争で犠牲になった人々」という固有性を失った存在から実存性を回復し、映画に現れることになる。

それが1930年版からの大きな描写の違いだと思う。1930年版は人物を国民という大枠で語っている。フレームが大きいのだ。このことは制作技術の限界であり、そのことをもって1930年版の素晴らしさが棄損されるわけではない。ただ、本作は1930年版からの乗り越えとして兵士の〈顔〉に迫ったはずである。

もう一つ印象的なのは長閑さである。戦闘描写は爆撃音が鳴り響き、人々が多数殺されて悲惨なものであるのは違いない。ただ戦闘外の時間もシーンに多々ある。例えば、食事の配給に並ぶことや、地べたに座って談笑するシーン。フランス人女性と密かに交流し、性愛が芽生えるシーンなど。これらの描写は典型的な邦画の戦争描写とは一線を画す。だが日常の戦争状態を描いたことがより、戦争の現実に迫ったことだろうし、そのような時間が存在していたことを想像可能にする。

郵便局員のヒンメルスタスが上官になったことで、馬鹿にされる立場から過度に仕打ちを与える立場へと権威化する人間の「愚かさ」や戦死する兵士への哀悼よりベッドの空きが気がかりな状態など戦争の悲惨さを伝える描写は多々ある。他にも負傷した仲間のことを素直に喜べなかったり、治らないなら死にたくなる気持ちも理解できる。そして実際に人を殺す立場にない者が、戦闘についてあれこれ語る空虚さも。

ラストシーンでポールがモノローグで語ることが、戦争の事実である。
「西部戦線異状なし」。この言葉の軽さの背後に戦争の重い事実があった状態は現在にもいえることだろう。ディスプレイ上で軽い言葉たちが無数に飛び交う。現実の重さを無視して暴力と化している。今こそみなければならないだろう。私たちには顔がある。

☆1吉田伊知郎(2025)「『西部戦線異状なし』1979解説」Blu-ray・DVD所収解説ブックレットより
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    波鳥知己

    波鳥知己

    1998年生まれ。メモメモ: