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哭声 コクソンのMUAのレビュー・感想・評価

哭声 コクソン(2016年製作の映画)
4.1
何か映画を見るとき、「騙されたい」「私を驚かせて欲しい」と言う無意識な角ばった感情から所謂”どんでん返し”モノを好んでしまうが、ハードルを上げすぎたと知ると今度はその映画がドヤ顔で存在することにイラっとしてしまうという、非常に我儘な注文をしてしまう事が時にある。
この映画ほど感想が書きづらい作品を未だ見たことは無いが、衝撃的という前評判は確かだった。
しかし様々な考察を拝見して思うに、ストーリー自体はベースとなっているもの(=キリスト教)に対して非常に忠実だと思う。その”忠実さ”を保ちながらここまで物語の表面を異様な構成で覆ってしまうというのが凄い。

主人公が小さい村の刑事であり、残忍な事件が立て続けに起きているのにも関わらずそれらを”他人事”=事件への関与はあくまでも仕事、だと見切って食欲・性欲が全く衰えない、それどころか食事の時間に手間取って職場に遅刻してしまう程なのに、物語が進行して次第に事件が自分にも及ぶに連れ、それらの”欲求”が視覚的にも減退しているのがわかる、、という細やかな設定が個人的にすごくよかった。
彼は基本的に非常に頼りない人物であるにも関わらず、「刑事」という肩書きがかろうじて彼の人物像を少し膨張させ、有益者として存在する事を自他に許可しているように見えた。これは一種のエゴだと思う、自身の存在を深く疑い、問う事をせず、外部(=社会的)な立場へ安易に逃避して自分の存在を確保しようとする。ある意味彼の弱さであると。

一方で劇中の「日本人」は自分のアイデンティティーを全く持っていない。皆が「あいつは悪人だ」と自分を噂すれば、それをそのまま受容する。彼という存在自身が、村人たちによって全て作られてしまっている。
言い換えれば彼には実態が無い。この物質世界で存在するにあたり彼自身が「自分はこうだ」と主張する、”鎖”みたいなものが彼の中には一切無い。
すると次第に、彼は本当に存在するのだろうか?という疑問が自然と湧いてしまう。
結局主人公は、自分自身についてを直接的ではなく、家族や村人、自分に関与する人物たちを通して疑わなければならなくなるのだなあ・・と。

この映画のポスターにもある「疑え、惑わされるな」というキャッチコピーは劇中の核心的なシーンに多用されるが、”(私を・俺を)信じろ”とは絶対に言わない、という所が非常に面白いなあ〜と。”信じる”なら信じる先の結末自体が答えだけど、疑えと言っている時点で、”疑う”という行為そのものが答えであり、疑った先の答え自体は何なのかという事についてこの映画は明確に定義してないっぽいよね・・。人生において求めるのは答えではなく、全ての存在するものを安易に受容するのではなく問い、疑い、本質を自分の中で深く見つめなおすという作業こそが目的=答えなのでは?
人生の目的は何かの達成ではなく、目的が何なのかを探す事こそが目的という、人生の意義みたいなのにも結べそー。ファ〜これも楽しめそうですな。。(長)

この映画は、物語の登場人物たちは結局どうなったのかという視点よりも、一歩引いて「この物語は一体何を意味しているのか」という視点で見た方がより楽しそう。
そういう風変わりな視点で鑑賞出来るのに、ベース自体は非常に忠実という稀有なこの作品は、何度見ても異なった見方が出そうな万華鏡のような存在だな〜というのが最初の感想。
確かに”衝撃”でした。個人的にこの封鎖的な雰囲気がいいね〜。
この作品は繰り返し見るほど勉強になる箇所がかなり多そうなので、詳しい考察等は割愛。
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