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遠い夜明けのotomisanのレビュー・感想・評価

遠い夜明け(1987年製作の映画)
4.0
 新聞記者ウッズは白人。その彼に記事の非を指摘し、事実に触れよと促すランペーレ医師は黒人。彼女が会えと告げるビコは黒人活動家だが、ウッズも含め白人の誰もが彼をほぼ扇動家、事実上のテロリストと眺めていただろう。
 同じくテロリストとして収監済みのネルソン・マンデラは弁護士資格を得ていたわけだが、この映画にはそのほか、ウッズへの応援者として黒人の神父もいる。しかし、ウッズと同じ報道人が見当たらない。医師、弁護士、神父いずれも資格を要する職業だが南アフリカにも黒人のための修習の道があったという事である。

 しかし、ジャーナリストには資格も修習コースも必要ない。憂うべき現状とそれに対して何がどうあるべきか考えを巡らせ、他の意見に触れ考えの舵取りを正し、多くを説得する言葉を持つだけであろう。しかし、それが黒人の独りよがりにならないためのこころのありようをどう養うのだろう。つらい現実に負けないで説得を内に外に続ける粘り強さはどこから湧くのだろう。ただ、それに耳を貸さず、猜疑心に駆られ、彼を不都合とする者たちなら、これはどうあれ扇動家、ひいてはテロリズムも同然と映るだろう。
 そこで、彼を生かすべきでないと、法の網をかいくぐり、偽装を施してでも殺すべきだと思う者が現れる。しかし、現にそうした人々を陰に擁護した政権もやがては倒れてしまう。その様子を眺め来れば、もともと専制的政府の運用が合わない人種、それは被制圧者である黒人ではなく、専制側となった欧州系の人々についていうのだが、そんな者たちが現にいるようだと知れる。

 その先頭に立つのがこのウッズ記者であるが、数々のマンデラ裁判でも'56年の最初の逮捕での裁判で無罪としたのも白人判事であり、その後終身刑となったマンデラの救出を企図したグループも英国人である。人種隔離政策の誤りを認め、その困難を悟りマンデラを釈放し、アパルトヘイトを撤廃、普通選挙を施行し政権を明け渡したデ・クラークも白人である。
 植民地体制そのままで立国した南アフリカだが、母国イギリスの数世紀にわたる民主化の過程を忘れたかのような強硬論の背景には南アフリカの国土を耕したのは自分たちに他ならないとの自負があったことは銘記されるべきだろう。それが奇妙にも、フォルスターにも増して強硬なアパルトヘイト政権であった、次代ボーダによってそのアパルトヘイト停止の道筋が付けられ、デ・クラークに引き継がれるのである。もちろん、ウッズの件もあって国際世論は批判を鳴らし、経済制裁も厳しく周辺国との軋轢も負担が大きい。そんな状況にあってボーダは獄中のマンデラと対話を設けるが、意外にもその関係は友好的とさえ言われる。

 世界で孤立し反アパルトヘイト運動が熾烈となる中、ボーダにあってはマンデラが将来の国の指導者になる可能性を想像していたのは間違いあるまい。そして、そのうえで穏健なデ・クラークに事を託し、黒人政権がマンデラのもとで始まることをマンデラとの接触を経てボーダは許容したのである。
 権力者としてのボーダと政治家としてのボーダがマンデラをめぐってどのような葛藤の末、権力を放棄しても政治的理想のため、マンデラに賭けようと決心するに至ったのだろう。その秘密もマンデラの中、あるいはマンデラを殺せなかった周囲に、それとも、むしろ殺させなかったと言うべきなのかもしれないが、あったのかもしれない。

 そんな想像を巡らしながらウッズとビコの関係を眺めていたが、そのビコもああもあっけなく殺されてしまう。もちろん、マンデラが殺されることも、ビコが死を免れることもあり得ただろう。ウッズも出国なしで告発にこぎつける道も開けたかもしれない。
 マンデラの代わりにビコがボーダのこころを変えさせウッズを右腕とした新政権が起こる想像が頭をかすめるが、では、アパルトヘイトが起きない歴史はあり得たろうか?小さな駒の用い違いはあっても物事の大勢は変わることはないだろう。政権は変わっても困難な国情の南アフリカが人種隔離の弊害を受けない道はなかったのだろう。自由の理念が認められ、政治による隔離がなくなっても、逆差別の非難覚悟の支援を設けてもなお解消できない格差を前に自由は生中なことでは保てないことが思われる。
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