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サーミの血のdm10foreverのレビュー・感想・評価

サーミの血(2016年製作の映画)
4.0
【彼女が本当に見たかったものは・・・】

この作品を観るまで「ラップランド」という場所やサーミ人、スウェーデンにおける彼らの位置づけなど、全く知りませんでした。
なのでフィクションかと思っていたくらいです(お恥ずかしい)。

スウェーデン北部にあるラップランドに暮らすエレ・マリャとニェンナの姉妹はサーミ人。
トナカイの放牧などで生計を立てる先住民族である。
彼女たちは寄宿学校に通って教育を受けるが、いたるところで差別的な扱いを受ける。
そんな中、自分がサーミであることを隠して忍び込んだパーティーでスウェーデン人の二クラスという青年と出会う。
二人は初々しくも恋に落ちるが、学校を抜け出したことが先生にバレてそこから連れ戻されてしまう。

エレ・マニャは進学してスウェーデンに行きたいという希望があったが先生はそれを認めない。
サーミ人の脳はスゥエーデン人(文明人)と比べて発達していないということが科学的に証明されているし、そんなあなたたちが無理して都会に出れば絶滅してしまうとまで言われる。

学校での成績も優秀だし、必要ならこれからも勉強には労を惜しまない覚悟のエレ・マニャは愕然とする。

「サーミはやる前から認められないのか」と。

まるで丘に憧れたイルカが、立派なヒレと引き換えに丘に上がる能力を手に入れたけど、どんなに繕っても自分はやっぱりイルカだという事をまざまざと知らしめられてしまう。
やっぱり海に戻ろうかと迷うけど、もうヒレを捨てたイルカは海にも戻れなかった。そんな感じなのだろうか・・・。

エレ・マリャが燃やした自分の民族衣装は彼女の「サーミ人」としてのアイデンティティそのもの。
そしてそれでも肌身離さず持っていた「トナカイのマーキング用のナイフ」は「サーミ人としての誇り」。
彼女はステイタスとしての「サーミ人」を捨て自由に生きたいと願った。
普通に人生を謳歌することを欲した。
しかし、彼女が見た世界は文明格差とか貧富の差とかそんな物質的なものではなく、明らかにラップランドとは違ういびつな世界だった。
途中、ニクラスの家に転がり込んだり、お金を無心したりする場面に眉を顰めてしまうかもしれないが、あれが彼女ができる限界なのだ。

「幼稚」ともとられるかもしれないが、都会での生活、お金、地位、学校、出身地・・・何一つ「自分自身ではないもの」が物差しの都会で生きていくには、彼女は無力すぎたのだ。

先生が言っていた「あなたたちは絶滅してしまう」という言葉の意味が分かった気がした。

エレ・マニャは負けたのだろうか・・・。

僕はそうは思わない。
彼女は都会を知り、直にスウェーデン人を知り、そして自分がサーミ人であることを再認識したのだ。

現実・・・。
実際は多くのサーミ人がスウェーデンに帰化しているのだという。
それはひょっとしたら「帰化」という言葉の裏に隠された「踏み絵」なのかもしれない。この映画を観てそう思った。
世の中で迫害を受けている少数民族はサーミ人だけではない。
そして日本に住む自分はこういう現状にとことん疎い。
その疎さが罪なのだと知った。

北海道にもアイヌの方々がいる。
本土にも僕が名前を知らないだけで同じ思いをしている人たちがきっといる。
知らなかったというより、目を逸らしていたのかもしれない。
日本は単一民族国家だと教わってきたから。
だから全ては過去なんだと。
もし、僕の隣にエレ・マニャがいたら僕はどう接するのだろう・・・。
わからない。

あの身体測定のシーンはホントに辛かった。
描写云々ではなく、あからさまに彼女たち「サーミ」を動物のように扱っていたのだ。
裸になることを恥ずかしがる彼女たちに、怒るでも興奮するでもなく、機械的に「言う通りいしなさい」とだけ言って、淡々と計測を続けるシーン。
彼女たちの心が土足で踏まれているような感じがして、観ているこっちまで心が痛かった。

エレ・マニャを演じたレーネ=セシリア・スパルロク、ニェンナを演じたミーア=エリーカ・スパルロクは実の姉妹で本当のサーミ人。
晩年のエレ・マニャを演じたマイ=ドリス・リンピも同じくサーミ人だそうだ。
さらには監督のアマンダ=シェーネルもサーミ人とスェーデン人のハーフで、まさにリアルな風景がそこに描かれるわけだと納得した。

派手に盛り上がる映画ではない。
激しく号泣するようなものでもない。
でも、心がえぐられるような感覚の残る映画であった。

あえて時間をあけてもう一度観たい。自分の中で「熟成」させてからもう一度味わってみたいのだ。そう「二日目のカレーのように。
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