きゃんちょめ

羅生門のきゃんちょめのレビュー・感想・評価

羅生門(1950年製作の映画)
4.0
【実在と「群盲象を評す」との関係】

【原義】
「鏡面王は言った、「すぐに、象の所へ連れて行ってやれ」、家臣が王の命を受け、この盲人達を象の元に連れて行き手を引いて、盲人に示した。中には、足を触る者、尾を持つ者、尾の根本を持つ者、腹を触る者、脇腹を触る者、背を触る者、耳を触る者、頭を触る者、牙を触る者、鼻を触る者がいた。盲人達は象について、各々の見解を争い、自分は正しく他の者は間違っていると収拾がつかなくなった。家臣は王のもとに連れて帰った。王は、「お前達は象を見たことがあるか」と聞いたが、見たことはないと答えた。王は「象とはどういうものだ」と聞いた。足を触った者は「大王様、象とは立派な柱のようなものです」と答えた、尾を持った者は箒のよう、尾の根本を持った者は杖のよう、腹を触った者は太鼓のよう、脇腹を触った者は壁のよう、背を触った者は背の高い机のよう、耳を触った者は団扇のよう、頭を触った者は何か大きなかたまり、牙を触った者は何か角のようなもの、鼻を触った者は「大王様、象とは太い綱のようなものです」と答えた。そして、王の前で「大王様、象とは私が言っているものです」と再び言い争いを始めた。鏡面王は大いにこれを笑って言った、「盲人達よ、お前達は、まだありがたい仏様の教えに接していない者のように、理解の幅が狭いのだね」。
(『六度集経』より引用)

[教訓①]:観点取らないならないのと同じ。

→我々は観点を取らなければそもそもゾウを評することはできない。よって、誰にもゾウの客観的な実在の姿などというものは知ることができない。

[教訓②]:それでも複眼的思考には意義がある。

→複数の観点からゾウを評することで、少しずつ実在の正確なモデルが作れているので、絶望して不可知論に陥る必要はない。ひとりひとりの盲人を、あるひとは物理学者、別のまたある人は数学者、さらにまたある人は経済学者、そのまた別の人は疫学者の比喩として理解し、ゾウをコロナ禍に置き換えればこの話は現代でもまったく有効に機能するのである。

[教訓③]:盲人学者どうしのヘビモデルが一致してしまうこともありうる。

→正面から鼻に触ってゾウのヘビモデルを作った人と、背後から尻尾に触ってゾウのヘビモデルを作った人とが出会うと、同じヘビモデル作成者として話が通じてしまうのだが、実際には違うものが同じように見えているのかもしれない。

[教訓④]:たとえ盲人でなかったとしても位置の移動ができなければ事情は同じなのだとすると複数の観点が取れるということを可能にしているのは原初的には視覚というよりも身体の移動なのではないか。

→目隠しがなくても、移動できなければひとつのパースペクティブからしかゾウは見れない。だとすると、同じものを複数の観点から見るということが我々にはでき、それによって実在に少しずつ近づいていけるのは、そもそも身体運動が我々に可能で、ひとつのものを複数のパースペクティブから捉えることで、パースペクティブ性を捨象した客観的な対象のありようを想定するということが我々にはできるからである。
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