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勝手にふるえてろのnagaoKAshunPEiのレビュー・感想・評価

勝手にふるえてろ(2017年製作の映画)
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毎年、花粉が飛び始める時期になると、自分の身体の適応能力の低さに愕然とする。
まだおれの身体は花粉を克服することができないのか…。というか花粉が飛んでない時期にそれに抗うよう準備ができなかったのかと、しばしば悲しくなるのだ。
たかが花粉、されど花粉に人間は一個体では進化ができないことを痛感させられるのである。

『勝手にふるえてろ』は、人間の他者理解における「進化」の物語だ。

中学の同級生"イチ"(北村匠海)に10年間片思いを続けながら、会社の同期"ニ"(渡辺大知)に告白されたことで、妄想と現実の彼氏の間で揺れる女性ヨシカ(松岡茉優)が主人公のラブコメ。

ヨシカは、自意識過剰に「私ごとき」と自らを卑下してみながら、傲慢で姑息だし、それでいて茶目っ気たっぷりで憎めない。

この奇妙奇天烈で複雑怪奇なキャラクターと松岡茉優の役へのハマりっぷりが公開当時多くの観客に受けいれ、作品の根強いファンが存在する。

改めて見てみると、ヨシカには共感と反感の両極端な思いを抱く。

イチへの一途な想いは、微笑ましくもあり、とても痛々しい。

ニへのぞんざいな扱いがひどいが、ニの鬱陶しさもわかる。

イチと二への想いや扱いを通して、共感と反感を共存させながら、ヨシカの世界へみるみると引きずり込まれていく。

観ていられない、でも観ていたいと思わせる松岡茉優のコメディエンヌ性も相まって、いつの間にか彼女の心の内が観客のなかに醸成されていく。共犯関係を結んだヨシカと観客によって築かれてきた世界。それが頂点に達するかと思いきや音を立てて瓦解していく中盤〜後半にかけてのカタルシスが見事。世界の中心が自分だと思っていたのに、自分は世界の一部にすらなれていなかったことに気づかされるのだ。

えも言われぬ絶望の果てに、剥き出しの心で震えながら他者と対峙するクライマックスこそ、アンモナイトが生存のため歪に形を変えるように、自らの思考を繰り返すことが「進化」の道筋だと示される。

身体は「進化」できなくても、他者と向き合うことで思考は「進化(=アップデート)」できる。むしろそうすることでしか、人は人と向き合えないし、自分のことも知ることができないというような私たちに向けた戒めでもあり、希望でもあるのだろう。
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