驚かされた。
興味を持ったきっかけは、タイトルと評価の高さ。
監督やキャストや製作国については知らず、あらすじも予告編も感想も目にせず、何ひとつ予備知識を入れずに観たのだけれど、それもきっと幸いした。
この作品と出会えたことに大きな喜びを感じる。
まず、物語とキャラクターの設定が秀逸で、発明的。
脚本の構成も撮影も巧みで、映画的でありながら、文学を感じた。
しばらくは、一体何を主題とした物語なのかと、さっぱりわからずにいた。
が、ある事実が発覚した場面から、興味と集中がぐっと深まり、尻上がりに満足度も高まっていった。
プラトニックでありながら官能的。
繊細でありながら大胆。
グロテスクでありながら美しく。
変態性をはらみながらロマンティック。
強くありながら弱くもある。
人間でありながら動物。
死に近づきながら生きている。
そんな表現が、素晴らしく魅力的で、愛おしかった。
万有引力とは
ひき合う孤独の力である
谷川俊太郎さんの詩の一節を思い浮かべもした。
クライマックスでの心拍数、この数年で一番だったかも。
主人公のマーリアに近しい特性の女性に恋をして、けれども、恥ずかしながら当時の私では理解が及ばず、上手くいかなかった経験があるもので、そんなパーソナルな部分にも響いて、考えさせられた。
「男と女と」
「老いと若さと」
「嘘と本心と」
「理性と本能と」
「夢と現実と」
「誤解と真実と」
「沈黙と音楽と」
「諦念と希望と」
「雪と血と」
「静と動と」
「心と体と」
まさに、タイトルにふさわしいと思う。
重層的な対比の表現も効果的。
映像でも、演技でも、台詞でも、観客に行間を読み取らせて、想像を膨らませるような、余白があることも好ましかった。
たとえばひとつ、印象的だった場面を。
(以下は、まだ観ていない方は読まないでください)
夢の世界の、雪の降る森にて、鹿として逢ったふたり。
翌日、現実の世界の、会社の食堂で同席となる。
見つめ合うふたり。
沈黙。
静かながらも、感動の熱を帯びたエンドラの、たったひとことがある。
「素晴らしかった」
やがて、かすかに微笑み、目を伏せるマーリア。
沈黙。
私は、察した。
鹿たちの交尾を。
マジか…!
と驚きながらも、ふたりの気持ちを想像したら、ある種の感動を覚えた。
恋をした相手と、一夜を共にした時に湧き起こる、感動を。
つまりは、素晴らしかった、のです。
というわけで、本作ですっかりファンとなってしまった、イルディコー・エニェディ監督のインタビュー記事を、興味深く読んだ。
写真家のソール・ライター、そして、ウォン・カーウァイ監督の「花様年華」からの影響についても言及されていたので「私もファンです!」と挙手。
嬉しい数珠繋ぎ。
もう一度観たなら、新たな発見がありそうで、楽しみだ。
(後日また観たらオープニングのふたりがすでに微笑ましかった)
以下は、あくまで個人的な好みというか、願望としてというか、ファンとしての妄想、の話。
クライマックスの場面で、マーリアが浴槽で血を流していて、あの曲が途中で止まってしまってから、このままでは死んでしまう、といった緊迫した時間が流れたのちに、もしも、彼女が意識を失っていたならば、その夢の世界で、雌の鹿が瀕死の状態となっていて、すぐそばで雄の鹿が鳴きながらうろたえている、となり、現実の世界で飛び起きたエンドラが激しい胸騒ぎを覚えて、すぐさま電話を掛ける、着信音で覚醒するマーリア、となるだろうから、夢と現実との繋がりを、そして、心と体の結びつきを、より強く感じられたかも。
さらに、エンドラからの愛の告白を受けたマーリアが、表情はあのままで、血を流しながら、愛の告白をしながら、もしも、ひとすじの涙がこぼれていたなら、より美しく、より感動を覚えたかも。
しかしながら、もしも実際にそれらの場面が描かれていたとしたなら、蛇足だった、かも。
もしかしたら、あの流れる血が、マーリアにとっての涙だったのかな。
流れる血がメタファーで、哀しみの涙でもあり、喜びの涙でもあった、ということなら、大賛成。
ごめんなさい、余計な言及をしましたが、今のままで充分、最高に素晴らしく、大好きな映画なのです。
それでは、今夜も夢で会いましょう。
鹿。