YasujiOshiba

甘き人生のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

甘き人生(2016年製作の映画)
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これはわかりやすい。ストーリーを追いやすい。それでいてベロッキオらしさも満載。部屋から部屋へのかくれんぼなんて、お得意のイメージの戯れ。しかし、それはただの戯れではない。それがなければ、僕らがうまく生きられないような、あのリアルなものの在処を指し示す。この映画のラストなんてまさにそれ。ちょっと感動してしまった。

原作のマッシモ・グラメッリーニは、ジャーナリストにして作家でもあり、コッリエーレ・デッラ・セーラ紙の副主幹。その自伝的な小説『Fai bei sogni』(良い夢を見てね)を読んだベロッキオは、この作品が個人的に琴線に触れたと語っている。

「わたしはページをめくりながら個人的な感情を掘り起こしていました。母親の死、そして子供のとき孤児でいることに、心打たれました。リアルな衝動に駆られながら読んだのです」

ベロッキオに母親がいなかったわけではない。ただ、プチブルジョワ的な家庭で、母親から愛されていない、かまわれていないと感じていたという。そのときのフラストレーションが、あの『ポケットの中の握り拳』(1965)と、その後の一連の反ブルジョワ的・反体制的作品群に結晶化してゆくのだろう。

そういう意味でも、この映画の主人公マッシモは、『ポケットの中の握り拳』のアレッサンドロの対局にありながら、同じテーマの両極に触れ合っている。前者は母親を崖から突き落してしまうが、そのある種の残酷さは、愛されていないことから来るものだった。後者は、絶対的に愛されていたにもかかわらず、その愛の源が突然消えてしまうのだ。

そんな不幸な出来事を前にして、ぼくらはつい「もし(se)」と考えてしまう。しかし、「もし愛されていたら」「もし消えることがなかったら」という仮定は、そこから出てくる「いまごろはきっと〜だっただろう」という幻想をとおして、リアルな今を、どこまでも惨めなものに貶めてしまう。

生きるうえで障害になるのは、そんな「もし」なのかもしれない。映画のセリフにあるように、ぼくらはそれを「にもかからず(Nonostante) 」と言い換えなければならない。たしかに生きていれば何が起こるかわからない。そして何かが起こったとき、つい「もし」を使って「なかったことにする」したくなるのは人情というもの。しかし、いつまでもその「もし」をひきづってしまうのは、「あまりにも人間的」にすぎるのではないか。

ベロッキオはそこを突く。「もし」は結局のところ、起こってしまったことを取り除くことはない。ただ、取り除いたように言葉の上でみせかけるだけだ。そういうものを、ぼくらは幻想(illusione)と呼ぶ。ベロッキオの映像は、つねにこの「幻想」を扱ってきた。

とりわけ最近の作品では、「幻想の解体」(dellusione)の向こうに、思いがけない、夢のような、リアルを捉えてみせる。リアルなものは、起こってしまったことを受け入れながら、それに押しつぶされることなく、それがもはや生きる妨げにならないようなものへと進む道だ。

このリアルを導入する言葉が「にもかからわず」。そのイタリア語「non-ostante 」はまさに「妨げ・ない」という意味。ベロッキオのリアルのありようは、そんな「にもかかわらず」に導かれるリアルであり、それによって人の心を打ち砕くようなリアルではない。人の心を打ち砕き、人生を妨げてきたリアルを、ベロッキオは反転させる。「にもかからわず」(nonostante)によって反転したリアルは、もはや人生を「妨げることがない」(non-ostante)。

そんな「にもかかわらず」のリアルを描くのが、このもっとも新しいベロッキオの映画だといえるのかもしれない。
YasujiOshiba

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