モンティニーの狼男爵

テルマのモンティニーの狼男爵のネタバレレビュー・内容・結末

テルマ(2017年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

さて、まず本作を鑑賞後にどれだけ私が阿呆になったかを少しばかりお話しすると、エンドロール後中々足に力が入らず一番最後に劇場を後にしてからかばんを忘れたことに気づき、関連記事を読み漁っていたら2本ほど電車を乗り過ごし、満員電車の中師匠に「やばい」という迷惑でしかないlineを送りまくるという茫然自失かつ語彙力消滅を体現しながら、無事帰宅した次第です。

こういう圧倒的なのがあるからしっちゃかめっちゃか「面白い」って言えないんだよねー。昨日観た『アンダーザシルバーレイク』も素直に「面白い」と思ったけど、すいません、次元が違いました。

うまく言葉にできないかもしれませんが、自分の中で固めるためにもレビューします。若干ですがネタバレ含みますのでご了承ください。語りたいことは山ほどありますが、なるべく形になりやすいであろう「冒頭」と「聖書」の話をします。鑑賞前に読むのはオススメしません、よろしくでーす('ω')/

エンドロールかと思うほど淡白なキャスト紹介からはじまる本作。
次に映し出されたのは荘厳で美しい、極寒の中凍り付いた湖、その上を歩く一組の親子。6歳ほどに見える少女と、猟銃を肩にかけた男。会話はほとんどなく、厳格で無口な父親、彼について回る幼い娘といったイメージ。
なんとなくいい関係だなーと観ていると、彼らが歩く湖は足元の魚が泳いでいるのが見えるほど薄く、杞憂になりそうではあるが確かな不穏さがそこにある。湖を渡り終え雪山を歩く二人。
ふと野鹿が姿を現し、静かに銃を向ける父親、銃口の先で何が爆ぜるのか観察している娘。すると、あろうことか父親は鹿に向けていた銃口を娘に向けるのである。

白銀の森の中で、鹿を見つめ続ける娘と彼女に銃口を向けている父親。

なんという構図。。鹿が遠ざかっていくと同時に何とか銃口を下げた父親に、なぜ撃たなかったのか問いかけるような視線を娘は送る。
その後、目を閉じたくなるほど強い点滅の中浮かび上がる『THELMA』。

本作を観るまで監督のヨアキム・トリアーの名前を全く存じてなかったにわかな私ですが、このダークな空気感と考察したくなるようなキャラクターの心情と過去、たまらん。。
いやいや天才やないかい!とものの5分で打ちのめされたのである。

次に「聖書」の話します。学生時代に専攻の関係もありましたがただ興味本位で調べて得た「聖書」の知識がこんなところで役に立つのか!!!と、もはや「え、おれの映画じゃね?」と錯覚してしまった。
でも、みなさんありますよね?そういうの。邦画で大好きな『アヒルと鴨のコインロッカー』以来の感情でした。

全体的な雰囲気から宗教的な要素が強い映画なのかなと疑って観ていたら、鹿・烏・蛇と出てきて確信。これでもかと主張する「水」の存在と火葬も間違いないと。

このように本作において「聖書」ないしキリスト教的な要素が至る所に散りばめられており、おそらく見逃しているか、そもそも知識が足りてない箇所があると考えられるが気づけた点を考察していこう。

鹿は本来、魔除けとしての立ち位置を有しており、聖獣として崇められていた。この点に関しては日本でも神の使いとして考えられていたのと同じである(戦時中、食糧難に際して奈良の鹿の数が激減したのはタブー笑)。
しかし、キリスト教会は民衆に対して鹿を狩りの対象として広め、悪魔の象徴として刷り込み始める(ナチスがユダヤに対して行ったホロコーストと似ている)。
上記で記述した「冒頭」のシーンで、鹿に向けられるべき銃口を娘に向けたことにはこれに起因する意図があったとして間違いない。「狩りの対象」以上の殺害理由を、実の娘に見出そうとした。

キリスト教において黒い鳥は不幸を運ぶ不吉の象徴とされており、特に烏は忌み嫌うべきものとして紹介されている。テルマの根本にあるこの風習が、度々ガラス戸に激突する。
テルマにとっての不吉とは何か?それをはねのけるというのはどういう意味があるのか。そしてテルマの生涯で最も重要な願いを叶えた後に飛び立つ、黒い小鳥は何を意味するのか。

蛇はアダムとイヴのなかで、彼らを誘惑する最も狡猾な生き物として登場する。禁断の果実を食べるよう唆した蛇が、キリスト教において禁忌とされている同性愛を象徴する本作の場面で度々姿を現す。

「水」はキリスト教にとって所謂、誕生や生命に関わる万物の一つであり、火葬は神に穢れを取ってもらわなければならない体を焼いて失くすことに結がる。そのため、最もやってはいけない残虐な処刑とされており、魔女狩りの際に使われていた過去がある。

宣伝などで使われている「テルマを抑圧する両親」という言葉は私の中で違和感がある。
キリスト教徒にとってキリストの崇拝する心情の根本にあるのは愛ではなく、その全能に対する恐怖であると考えているからだ。
そのために献身的な祈りを捧げ、赦しを乞い、安息を求める。
つまり、全能の力がある娘に対する両親の感情としては抑圧ではなく、恐怖に起因するものであり、また、子を愛するという経典の教えの狭間で揺れ動く葛藤であると私は考える。
この点に関してはテルマも両親も「愛憎の混濁」といった意味で共通している。

さて、ここまで読んでいただけた方には私がどれだけ本作にハマったのかお分かりいただけただろうか。後半、完全に論文口調なのはわざとである。

皆さんに見てほしいという思いと独り占めしたいという思いがあるわけだが後者は不可能なので長々と私的な意見を書き連ねてみました。面白いと思っていただければ幸いです。

2018🏅