己の過失から迷惑を掛けてしまった少年への、謝罪の為の動画メッセージにも関わらず、無自覚な上から目線で、差別的な言動を晒す、クリスティアン。
高いプライドが邪魔をするのか、潔く謝罪することの出来ない彼は、王立現代美術館のチーフキュレーター。
皮肉なことに彼は「すべての人が平等の権利を持ち、公平に扱われる、思いやりの聖域」というテーマから作られた、現代アートのインスタレーション作品「ザ・スクエア」を展示していた。
人間性を問われる局面で、行動の選択を誤った挙句に陥ってしまう、どうしようもない居たたまれなさを描いた、前作「フレンチアルプスで起きたこと」でもそうだったように、己の矮小さをとことん突きつけられてしまう主人公には、同情するし、共感を覚えるし、苦笑してしまう。
監督の底意地の悪い世界観による作家性が、皮肉の効いた、毒のあるユーモアをそこかしこに、本作でもぶれることなく表現されていた。
前作ではヴィバルディの「四季」だったが、本作では「アヴェ・マリア」を繰り返し使用しており、滑稽な状況とのコントラストとリズムを生み出していて、効果的。
しかし、個人的には、起こる出来事の数と問題へのフォーカスをもっと絞り、タイトルでもある「ザ・スクエア」と、今よりもさらに有機的に絡めた上で、風刺を超えた、人間と人間の関係の中で起こる、エモーショナルな物語を描いて欲しかった。
それは、今のままでも興味深くはあるけれど、好きにはなれないから、というシンプルな理由から。
監督の意図した、あえての手法かもしれないが、どうにも観るに耐えなかったので、モンキーマンのパフォーマンスのシークエンスでも、笑わせてくれたなら良かったのに。
どうだ、嫌な気持ちになるだろう、といった、監督の傲慢さを感じ取ってしまったから。
あの、ナポレオンズ的なコンドームの奪い合いには笑ったけれど。
己の過ちを贖罪すべく、父親として娘たちの手本となるべく、最後の最後に正義の行動を起こそうとするも、時すでに遅しで、謝罪すべき少年は不在、といった、肩透かしの残酷さ。
挑発的な作品だった。