りょー

世界で一番ゴッホを描いた男のりょーのレビュー・感想・評価

4.0
【あらすじ】

中国南部大芬村(油絵村)の複製画家(贋作ではない)を追ったドキュメンタリー。

工房で目覚め、工房で飯を食い、工房で寝る。そんな生活を続け20年、月間700枚以上のゴッホの複製画を描く。

「実は俺はな……小卒なんだ。中学すら出ていない」

男は後悔と両親への感謝を涙ながらカメラへ語る。金は無い。しかし、胸中にあった想いが、いよいよ男をゴッホの聖地アムステルダム・フランスへと突き動かす!

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【模倣の作法】

資本主義・個人主義の現代。芸術にもビジネスにも線引きはなく、“作法”などと口にすれば無言で一笑に付されるのが関の山。

可視化された数値で判断され、大人になってもカタチを変えた通信簿に心は圧迫される。

でも、数値や成果を求める上では悪癖でしかない、個人の流儀としての“作法”、つまりは生き方には、いくつ歳を重ねても執着できる人でいたい。おそらくそうした想いを捨てるか否かの境で懊悩する人も少なくないはず。

有形のモノ作りは、物質を自らで編集しお金を稼ぐ仕事。オリジナルでコレをする難易度は人一倍分かる。そして、技術職として、模倣から入る必然の流れと困難にはとても共感できた。

2DKの工房に川の字で寝泊る画家たち。部屋一帯に吊るされた複製画と飛び散ったアクリル。ビジネスと芸術。〆切と拘り。金額と熱量。オリジナルとの対面。失意。再構築。

多少の編集あれど、ノンフィクションである。

その事実が、おそらく技術職の人やモノを作る人にとって、エナジードリンクじゃ満たされないモノをくれるんじゃなかろうか……。いや、どんな人にでも当てはまるのかも知れない。

どんな技術も、誰かが築いた礎から成る。

言い換えれば、僕らのすることなすことは、どこまでも歴史や伝統の産物であって、コピーの産物なのだ。

であるなら、あのゴッホの複製画を描く男は紛れもなく僕らの鏡である。

あの男のように「ゴッホがマイゴッドです」と言えたら良い。「興味がある」じゃなくて推しで神でめっちゃ好きと言いたい。その熱量と自己完結の敬意。皮肉ではなく本気でソレが欲しい。おそらく本作を観る人の多くは何かへのエネルギーを求めている(気がしている)。

しかし、この絵を描く男は、我々の鏡でありながらも、我々の求める熱量と環境と敬意をすでに獲得している。

だからこそ次の難題にぶつかっていくのだ。

自己完結の域から徐々に脱し、また次なる自己完結した正解へと、向き合い方を変えていく。

そういった意味では、もう答えは出ている。

熱量と環境と作法(敬意)。

その先に、男がエンドロール後にぶつかるであろう境地があり、我々もそこへ行ける。

共感したからこそ、エンドロールの先の男の生き方。模倣とオリジナルのバランス。商売と個人の情熱とのバランスに、とても興味があった。

コロナを経て大芬村の複製画業界に大きな損失があったというニュースを見た。そして、今やAIも絵を描く時代。

願わくば、今、あの男がどんな絵を描いているのか。

エンドロールの続きが観たい。
りょー

りょー