さむ

THE LIMIT OF SLEEPING BEAUTY リミット・オブ・スリーピング ビューティのさむのレビュー・感想・評価

5.0
#リミスリ #高橋一生

***(H29.12.17更新)***

武蔵野館をはじめとして、上映第1期が終わった。
そろそろネタバレを無視して書きなぐっても許されるだろう。

ストーリーは単純だ。
ネタバレを気にかけなければいけないのは、むしろ「仕掛け」の部分だ。
監督は根っからの映画人らしく、映像の中はものすごい情報量である。

タイトル通り、主人公は眠っている。
冒頭のダンスシーンでアキが装着するのは、アイマスクでもあり、仮面舞踏会におけるマスカレイドでもあるかもしれない。


高架下らしき場所でアキは目を覚ます。
アキの頭上には「制限高」の看板。まだリミットまで程遠い時期だ。
10代の頃のアキ。アキの表情もあどけない。

見渡せば、アキの行く先は赤信号ばかり。
だがアキが歩き出した途端、一斉に青信号に変わる。

「オレンジジュースください」
「ジントニック。ライムじゃなくてオレンジ」
アキとカイト、二人のオーダーに共通する「オレンジ」。
時間がテーマの作品だし、目覚まし時計は出てくるし、
『時計じかけのオレンジ』を連想してしまう。
まぁ、これは考えすぎだろう。

東京ハムレット・オフィーリアのオーディション会場。
窓から覗くブッチ。
ヤマモトマリアとアキのヒリヒリするような会話。

舞台挨拶で登壇者の皆さんが言っていたけれど、現実で成功するのは、実際、ヤマモトマリアのような女だ。
「幼い頃からの純粋な夢」を馬鹿にして、建前と本音を使い分けられる女が成功する。
それは世の真理だ。

マスコミが入らなかった公開初日の2度目の舞台挨拶で、登壇者それぞれの「夢」に対するコメントを聞くことができた。
高橋一生は、「たとえどんな稚拙な夢を持っていても、恥ずかしげもなく自分を肯定して夢に向かって生きていく」という旨のコメントをしていたのを思い出した。


カイトとのベッドシーンで、アキの髪型が次々変わっていく。
黒髪ショートボブ、栗色女優巻き、赤髪ストレートボブ、そして黒髪ショートボブに戻る。
カイトは同時に3種類のアキと愛し合っている。初見時はこれには衝撃を受けた。

とにかく映像の中の情報量が半端ないので、1回観ただけではなかなか面白さを堪能するところまで追いつかない。それゆえ私は、何度も何度も狂ったようにリピートし続けている。
慣れてくると、次回の鑑賞ポイントを自分なりに仮説をたててから劇場に向かい、実際に映像を観ながら仮説を検証する、という習慣ができてしまった。
これからも劇場公開しているところを探しては、リミスリの旅に出かけることだろう。

銃撃戦は最も私が好きなシーン。
諸悪の根源であるゴトウリュウに撃たれそうになると、内なるアキ(ブッチ)が加勢してくる。

ブッチの台詞はいつでも秀逸だ。
ブッチ役の古畑新之も素晴らしい役者だ。
高橋一生と同じ事務所、舞プロモーションのなんと豊富な人材バンクぶりであることよ。
次回の高崎映画祭では、ぜひこのリミスリで「最優秀新進男優賞」を受賞していただきたい。
(痒いところに手が届く高崎映画祭スタッフさん、よろしくお願いします)

最後のシーン。
アキとカイトの起爆装置の行ったり来たり。
カイトがアキに起爆装置を手渡す時の、カイトの表情がとにかく素晴らしい。

私は勝手に、このカイトの中の人・高橋一生を「永劫回帰の高橋一生」と名付けたのだが、この映画での見どころは、やはりこの場面の高橋一生なのだと思う。慈愛と諦観と狂気を孕んでいる。
彼自身もインタビューで、脚本のこのシーンの台詞を大幅にカットし、表情だけで伝わるようにしたと語っていた。
たしかに伝わったぞ、高橋一生。

そして起爆装置のスイッチを自ら押した眠れる美女は、冒頭の高架下での第1の覚醒に続き、第2の覚醒をする。
喪失からの覚醒。
これ以上失うものがなくなった人間は、その潜在能力を惜しみなく発揮できる力を持つ。


人生で大切なのは、何を手にいれるのかじゃなく、何を捨てるかなんだ。
(by 写真家ソール・ライター)
観客はいつも主人公が「何」を掴むのかを追っているようで、実は主人公が「何」を手離すのかを見守っている。
(by 二宮健監督)


映画というものは、観る人次第で効能が異なる。
よく効く人もいればまったく効かない人もいる。却って病状を悪化させる人もいる。
少なくても私にとっては、よく効くトランキライザーだ。


久しぶりにこういう映画に出会えた喜び。



石井岳龍『ソレダケ / that’s it』以来だ。



***(H29.12.10更新)***

鑑賞回数が2桁になってしまった。
やっぱり好きすぎるこの世界観。

何度も何度も思ったことをメモにしては書きなぐり、を続けてきたけれど、その度に全く違う解釈になっているのが、自分でも想定外で面白すぎる。
もし男脳と女脳というのがあるとすれば、映画を観た感想にもそれは顕著に現れるのだと思う。それは実際の性別とあまり関係がないような気がする。

夢の話と割り切って面白がり、何度もリピートできてしまうのは男脳か。
愛の話と受け取り、アキとカイトを自分の恋愛に置き換えて心エグラレル、ゆえに2度と観たくないと思うのは女脳か。

まぁ、どっちでもいい話だ。


感想もひと回りして、今現在は、「やっぱり役者さん素敵!監督すごい!」という理屈抜きの「好き」に落ち着く。

桜井ユキのスピリチュアルな役への入り方。
古畑新之の自由すぎる表現力と身体能力。
高橋一生の完璧なまでのカイトという人物への解釈。

そして、高橋一生の頭の良さがわかる二宮健監督。
他人の頭の良さがわかるのは、同じく頭の良い人間しかいない。

自分が経験したことがない29歳の女の子を映画にすること。
経験したことがないからこそバイアスをかけずにやりたい放題に表現できること。

それこそ映画だ。

言語表現には限界があるが、映像表現には大きな可能性がある。

それにしても、二宮健×高橋一生という2種類の劇薬の掛け合わせの化学反応が、これほど面白くなるとは想像もしなかった。

いずれまた、別の新たな作品でこの化学反応を観てみたい。


***(H29.12.3更新)***

やっぱりこの映画。
夢の話である。
nightmare(悪夢)でもあり、dream(夢)でもある。


アキは、ママと「なんかオトコ」と暮らしていた。
「オンナである母」と「なんかオトコ」との暮らしの中で、彼女は逃げ場所を見つけるしかなかった。それはブラウン管の中のきらびやかな女優の世界である。彼女にとって、妄想の世界に生きることは救いだった。彼女は自分自身を妄想の世界の住人として住まわせた。

暗闇の中で濃厚なキスをしている豊満な女性はおそらくアキの母であろう。
自分のdreamを叶えようとするとき、nightmareがフラッシュバックのように彼女に襲いかかる。自分はなぜ女優になりたいのか。本当は女優になりたいのではなく、ただ逃げたかっただけではないか。

「客観的にアキの(nightmare)を分析し自問自答する役目を果たす」のがブッチならば、「『女優さん』になるという概念そのもの(dream)を擬人化した」のがカイトかもしれない。
ゆえにカイトは、どこか人間離れしていて神がかっている。

夢(dream)というものは、表面は上質な正絹で黒く光っていて、時折、綺麗な羽裏をチラ見せしてくる。そんなマントを一枚剥げば、中には白くて純粋で孤独な本体が鎮座している。それが夢の本質だろう。
そして夢というものは、ある日突然目の前から消え去っていく。本当に突然に。

カイト(dream)は、ファインダー越しに見つめてくる。
カイト(dream)は、夢の持ち主を美化しすぎてしまう。
カイト(dream)は、明日死んでしまうかもしれない。
カイト(dream)は、若い者を好む。
カイト(dream)は、手に負えない存在である。
カイト(dream)は、起爆装置を隠し持っている。

カイトをすべて(dream)に置き換えて映画を観てみると、点と点が軽快に繋がっていく。そしてこの映画は、監督の言うように「明日への活力が出る映画」であると実感する。

こんなことをつらつらと考えながら、明日もまた映画館に通うのである。


***(H29.11.5更新)***
以下、ネタバレともつかない単なる個人の妄想をつらつらと。


夢の話か。それとも愛の話か。


全編通して、愛への渇望と諦観が溢れている。
母の愛を独り占めにできなかったアキ。父なるものに守ってもらう実感を持たずに夢だけを持ってしまったアキ。



本来、夢というのは男のものであるらしい。生物は元来、両性具有であり、女さえ存在すれば次世代に生命が受け継がれるという。便宜上、男が存在した方が繁殖するのに好都合であったために男は生まれたという説もある。繁殖以外の存在理由を持たないから、男は夢を持つことを存在理由にするようになったという。女にはもともと存在理由があるから夢など要らないのだと。
あくまでも俗説だけど。極端な俗説だけど。

アキとカイトの性別は、本来の男女の性質から見ると明らかに逆なのだ。



ところで。
カイトは本当に存在したのか。
私は、カイトすら、アキが作り出した妄想だと思っている。

下記の過去の感想の中で、暫定5種類のアキが存在すると書いた。
そして第6のアキによって、「この世界は何だ」の答えを見い出したと書いた。

第6のアキとは、ブッチであり、カイトであり、映画に出てくる登場人物すべてであろう。それこそ、二宮監督が作り出した世界そのものが、第6のアキなのである。なぜなら、アキは二宮監督本人だから。

人間が想像することは、すべて創造することができる。
世界とは「自分自身」である。悲しみも憎しみもあらゆる感情も、所詮は自分自身の世界が作り上げたものにすぎない。人間は、自分自身が作り出した産物から発生した感情に己の心を支配されているにすぎないのだ。



アキがカイトに対して抱いていた感情は愛だけだったのだろうか。
夢を完遂できないアキにとって、カイトは見えない呪縛でもあったのかもしれない。

生まれ変わった姿のはずの蛇。
アキに滝のように注がれたはずの愛。

アキに滝のように注がれる大量の水。
放水された水はやがて蛇のように不気味に光りながら床を舐め回す一筋の水に収束する。



遺された者として生き続けることも、迷子になって生き続けることも、それが永遠であると思うから辛い。

けれど。
人間は「終わり」が見えてくると、迷うことなく全力で走ることができる生き物だ。

あのスイッチを押せるかどうか。
今は自分自身には問いたくない。

ただ、あのスイッチの存在を信じることで、ゴールは近づき、ゴールで待つものの正体が見えてくる気がするから不思議だ。

また思いついたら感想(妄想)を書こう。



***(H29.10.23更新)***
↓これより下は鑑賞6回目の時点で書いた感想。


『THE LIMIT OF SLEEPING BEAUTY』鑑賞の雑感を書きました。




「それでも世界は素晴らしい」「僕がいたら、一からやり直すことにはならない」

黄泉の国へ旅立ったあの人が、この世界に時々舞い降りてきて、こんな風に囁いてくれたらいい。これは現実世界の私自身の思いでもある。



アキ(桜井ユキ)。
重低音が響く中、映画は幕をあける。アキ(桜井ユキ)の表情は猛々しく雄々しく力強い。冒頭からもう、彼女に惚れてしまう。

この映画を観る大前提として、何種類ものアキが登場することを念頭に入れておかなければならない。暫定、5種類のアキがいろんな形で存在する。
判別方法は髪型と髪色である。

どれが現実のアキで、どれが妄想のアキなのか。
それは観る人に委ねられている。観る人がそれぞれ自分の正解を見つければいいと思う。

この映画の面白いところは、その何種類ものアキを髪の情報を頼りに追っていても、途中でバグが起きるところである。バグが起きるタイミングは何度も映画を観続けると実にわかりやすいタイミングで入って来る。これが面白い。

高橋一生と桜井ユキのR指定が話題になっている濡れ場でも油断がならない。高橋一生の魅力的な背中の筋肉だけを見つめていると見逃してしまう。ここでもバグが起きている。ここはとても面白いところなので、未見の方はぜひ刮目して画面全体を観ていただきたいと思う。



カイト(高橋一生)。
人は一生のうち、何度か晩年を迎える。
人によってその回数は違うが、30歳前後に第1の晩年を迎える人は多い。その年頃、これといった悩みもなく世の中に不満もなくある程度満たされてはいるのだが、死が向こうから手招きをしてくるのだ。ゼロになりたい欲求が内部から湧き上がって来る。そう、それはかつて私にも訪れた。

今、この歳になって考えるが、それはきっと死が手招きしていたのではなく、細胞が生まれ変わりたがっていたのだろうと、今は思うことにしている。
数多くの夭逝した芸術家たちもこの年頃が鬼門である。彼らには自らの細胞の声に耳をすませてほしかった。細胞の生まれかわる季節は、諦めて季節の風に吹かれながら植物のようになっても生き続けるべきなのだ。

人の死に理由はない。それは人が生まれるのに理由がないのと一緒だ。理由もわからずに人は生を受け、死が迎えに来るまで生き続ける。
「とりあえず35まで生きてみよう」というカイトの中の人、高橋一生の過去のインタビューにおける発言も、特に違和感を感じずに納得しながら読んだ記憶がある。



精神病棟。
この世の中は大きな精神病棟だ。
世間全体が健全なものを求め、人間に病名をつけたがり、マイノリティに対しては、上から「手を差し伸べよう」とする。

銃撃戦。
ブッチの台詞。
アキのアイデンティティに触れる、ブッチのあの台詞がきっかけとなり、涙腺は決壊する。
破壊と再生。揺るがないアイデンティティ。



アキは「この世界は何だ」と自問自答し続けている。
やがてその答えをアキは自分自身で掴む。
冒頭にあげた5種類のアキに次ぐ、第6のアキ(これも観る人によって答えが違うだろう)によって気づく。

そしてカイトの台詞。
「それでも世界は素晴らしい」
これ以上の慈愛に満ちた言葉があるだろうか。

こうして決壊した涙腺は、完全に全壊する。



覚醒。
覚醒した後の瞳に映るものはすべて極彩色だ。
オーロラのような鮮やかなエンドロールの魔法にかかり、観ている者は覚醒させられたまま、翌日また、劇場に足を運ぶのである。



アイデンティティ。
「自分以外の者になろうとするな。良くも悪くも自分だ」
高橋一生の過去のインタビューでの回答である。
これはこの作品のテーマでもある。
彼は、全作品を自身の骨肉にしているのだ。


「だから高橋一生は素晴らしい」



このレビューを、高橋一生を愛してやまなかった亡き同居人Tに送ります。
さむ

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