ガンビー教授

寝ても覚めてものガンビー教授のレビュー・感想・評価

寝ても覚めても(2018年製作の映画)
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素晴らしくよく撮れたシーンの連続する傑作かな、と思って見ていたが、それ以上に嘘みたいな傑作だった。

ヌーヴェルヴァーグの男2人女1人ともまた意味が違う、極端な男2人対女1人ものというこの構図は、邦画の近作で言えば溺れるナイフとか勝手にふるえてろなどが思い出される。おそらく少女漫画の系譜を受けているのかななどとも思うが、それは単純に三角関係と言ってみたときに想像される関係性と完全に違っていて、もっとラディカルなものである。ここでの男2人は、ある次元において同一であったはずのものがもはや元に戻せないぐらい正反対の実態を得て分裂したような両極であり、だからその役を東出昌大という化け物みたいな役者(褒め言葉と言うより、文字通り化け物に似ていると思う)がXかつX’として1人で演じきるのは、寓意的とかじゃなく理にかなっている(本当に、東出昌大というあの役者は本当に何なのだろう)。物語は、この2つの窓口を得て分裂した女性の人格が、統合され、両者を乗り越えてまた1つに帰着するまでを描くことになる。

シーンがよく撮れていると書いたけど、本当によく撮れている。会話のあり方、人間の関わり方、それらをつなぐ映画的な飛躍。映画にしかあり得ない飛躍の形をところどころで目撃させられる。爆竹に至るまでの冒頭のシークエンスで、観客は突拍子もない映画的な嘘に巻き込まれることになるのだけど、それは映画においてしかあり得ない飛躍であるゆえに、映画のなかにあって最も真実らしい、現実的な表情を見せる。それは映画だからとしか言いようがない。

会話がいい。会話の面白さ、怖さ。演劇をめぐって不穏な空気が表出するところや、女性だけ3人横に並んで会話を弾ませるところ。意識的に「会話を撮ろう」とする意思を感じる。これは、監督が「他者としての人間」に興味があるからだろう。

巨大な他者のモチーフとして震災が背景に立ち上がってくる。さまざまなやり方で震災を描こうとした映画はいっぱいあったが、こんなやりかたで描いた作品はほかになかったし、この映画の描写が僕には最もリアルであったように思う。

見ながら、この映画は絶対に「海」にたどり着くはずだ、ひょっとしたら海で幕が降りるのではないか、という予感がした。前半は当たった。朝子と麦は海に辿り着く。震災後の日本を描いていることは明らかなので、ここでの海はもちろん「そういうもの」である。しかし予想に反して、麦が海に触れることはない。その資格がないというふうに、車で走り去ってしまう。そして朝子は一人で海を見て、また引き返すことになる。

この作品は結局、海ではなく〇によって幕が引かれる。そこには震えるほどシンプルな感動がある。メタファーとして完璧ではなかろうか。

次の瞬間には世界はどうなっているか分からないし、次の瞬間には誰が何をするか分からない。つまり次の瞬間には自分も昨日の自分のままではいられないし、つまり自分の中には自分でも考えつかないような「他者」がいて、なおかつそれは否応なしに訪れるものである。それは確かに考えるだけでめちゃくちゃ恐ろしい話ではある。一方で、現実というのは確かにそういう手触りをしているのだ、と納得させられてしまう。

そのなかで誰かひとりの人間を愛そうとすることは、というか意思と無関係に、すでに愛してしまっている、ということは狂気に近い衝動である。亮平をずぶ濡れのまま走って追いかける朝子、彼らをロングショットで捉えた画がもうめちゃくちゃに素晴らしくて、鳥肌が立つし、こういうシーンを見るために映画館に足を運んでいるというのは全然誇張ではない。

シンプルと言えばシンプルな話だが、しかし言葉にしてその魅力を説明しようとすると本当に難しい。筋道立てた紹介ができない。十分の一も魅力を伝えられていないんじゃないかと思う。

伊藤沙莉が脇として素晴らしい。

東出昌大が化け物みたいだ、というのは前述した通りだけど、彼をちゃんと受けてタメを張れる唐田えりか、彼女も凄い。

ひとつひとつのシーンが我々を一瞬で射抜いてしまう、現代の日本を被写体として切り取ってみせた最高レベルの邦画の一作。

音(響)の使い方の鋭いこと。あと、劇場で聞くtofubeatsの楽曲というのはなかなか乙な味わいだった。
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