a

ダンボのaのネタバレレビュー・内容・結末

ダンボ(2019年製作の映画)
-

このレビューはネタバレを含みます

・本作は、第1次世界大戦後の1919年が舞台となっており、本作のデザイナーによると、当時の建物や建築物、そしてビンテージの衣装諸々、細部に渡るまで徹底して研究した上で撮影に挑んだそう。そのような意気込みは最初から最後まで非常に強く感じられ、実際、本作で登場する衣装や装飾、そのほか壁画に至るまでは、どれも素晴らしく華やかな上に時代考証性もあるためリアルのラインを崩していない。


・そしてそこに、何とってもティム・バートンの非常に豊かな色彩感覚に基づく監修が入っているおかげで、本作の画作りは近年稀に見るレベルとなっている印象を受けた。特にサーカス団が登場するシーンはどこを切り取っても圧巻の作りで、カラフルで映像映えする描写がずっと続くのは端的に言ってすごいことだと思う。


・しかし、結論から申し上げてしまえば、そのサーカス的な美しさを優先するあまり、本作においてダンボというのは飛べるゾウとしての自律的な機能を完全に剥奪されてしまい、サーカスを運営する人間(白人の資本家、見せ物小屋の経営者、そして退役軍人という三様の権力者達)によって常に支配されながら指図によってのみ飛び続け、最後まで人間同士の権力闘争に利用されたままその役目を終え、用が済んだら自然にポイして終わりという、ある意味でオリジナルとは反対の方向性を向く驚くべきリメイクが行われていたように感じてしまった。


・『ダンボ』(1941)とはまるで正反対のダンボに対する扱いが本作には内包されていて、最後までダンボよりサーカスの方が明らかに華やかでもあり、これが製作陣の頭の中なのだとしたら、そのセンスは人間中心史観がすぎると思い、観ていて辛いものあったと言わざるを得ない。


・まず、本作ははっきり言ってダンボの物語ではない。本作におけるダンボは、退役軍人によって飼い慣らされたフリークスの一種に過ぎない。これについては冒頭、退役軍人が自身のキャリアを語った時から、すでに怪しい予感がしていた。なぜかと言えば、1941年版におけるダンボというのはフリークスであると同時に、その残酷な境遇から、「マイノリティ(下の身分)」であることを否が応でも強要されるような存在であり、そしてそうであるがゆえに、同じくならず者のジム=クロウ(直訳すると黒人に対する蔑称そのもの)や、顔のない労働者達とのシンパシーが無条件的に成立していたはずで、反対に、本作の時代背景である20世紀初頭における特権階級に等しい「白人の退役軍人」とは、とても分かり合えるはずがないからだ。


・それだけならまだしも、さらに薄気味悪かったのは、おそらくそう思った製作陣は、退役軍人の腕を一本切り落として、彼が周囲から揶揄われているような描写を付け加えることで、それらのマイノリティや、本作で出てくる他のサーカス団員との身分的な釣り合いを意図的に取ろうとしている点だ。そのような物理的な損傷や、周囲からのブーイングという描写を一度でも織り込めば、サーカスの団員ひいては観客から好感の目を持たれて、退役軍人という身分でも「善き軍人」を演じることができると思っていることこそがそもそもの大間違いであり、甚だ不勉が過ぎる。


・彼のキャラクターというのは本当に気味が悪くて、彼は戦争なしではメシも食えず、サーカスに来てからも相当に汚い感じの態度と言葉遣いを繰り返していた(スタンダード・プードルに虐待を試みていた描写さえあった)のに、子供が偶然獲得したダンボの調教技術という美味しい話を、親子という血縁の下フル活用し、自身が退役軍人であるというその特権的な一点のみを以て、ダンボや子供達、その他自身より身分の低いサーカス団員達の統率を常に取ろうと、リーダーシップを張り続ける。結局最後にも「人騒がせなゾウだ!」と、捨て台詞的かつ非常にプライドの高い一言を言い放ってダンボを見送るが、これは果たして本当に、身分の最も低いフリークスに対して、一言でも放っていいセリフなのだろうか。少なくともスタッフ側は、そのような高圧的な態度をダンボに対して取ってやることに何の問題意識もないし、むしろそうであることがこの関係性において望まれる態度だと思っている気がしてならない。このセリフだけでも「俺たちが助けてあげた」という意識が見え隠れしていることが、この点も気味が悪かった(そもそもダンボは親のことまで助けられる位の資本を集められることがはっきり描かれていて、一々人間の手によって助けられる必要などなかったはずだ。)


・第一、1941年版ダンボという物語は、見せものだったダンボが最終的に自分の力で空を飛び回ることに唯一の力強いカタルシスがあったし、彼が自分で「飛んだ」ことによって、その行動が人間社会の資本的な問題や新聞の話題をかっさらい、酷い境遇を共にしたお母さんにも専用の号車付きでいい思いをさせてあげたことに、マイノリティが一矢報いたことの成功像が見出せた作品なのではないか。それが、なぜ本作ではダンボという存在自体が、常に人間の煽りなしでは果敢に飛ぶこともままならない象へと陥れられてしまっているのだろうか。ダンボというキャラクターは、本質的に誰かに助けられるキャラクターデザインではないし、むしろそのためにこそ、彼は文字通り自由に飛び立つ力を得ていたのだ。


・最序盤、「耳が動かしたら飛べた」位の非常にあっさりした飛行描写によって、上のようなダンボにまつわる自由意思のストーリーが半ば強制的に解決されているのにも、とても難しい思いがあった。たしかに1941年版ダンボというのは突出してアニメ的な可愛さに溢れていて、それに対して本作ダンボのリアリティラインをデザインとの関係で織り込むのはかなり難しい問題であっただろうが、だからといってその説明を「省略」するのはいかがなものか。


・終盤に、子供達が自分の持っている鍵を外に放り投げ、ダンボに対して「もう自分の力で飛べるんだよ!鍵は必要ないんだよ!」とビジュアルイメージ付きでダンボに対して力説するシーンでは、(もしやこのシーンでダンボがひとりでに飛び立つことで、今まで貯めてきたすべてのフラストレーションをまくりにくるのか!?)と一瞬期待したのだが、ダンボが空を飛ぶまさにその直前、例の退役軍人パパが「港で待ってる」と言いながらダンボに子供達を乗せ上げてしまい、それによってダンボの肝心のフライトシーンに「子供を送り迎えする」という目的意識ができてしまったのだ。結局これによって、ダンボが自由に空を飛び回るシーンは最後の自然の中以外になくなってしまい、ここですべてが台無しになった感が非常に強い。これでは本当の意味で、ダンボは人間の所有物だ。


・最後、自然に還すというのも、一見すると動物解放の意味合いがあるように見えるが、ダンボは非搾取的に扱われていた存在が資本や権威を自身の力で超えていくことを考えれば、わざわざそのすべてを自然に奉還させる必要などどこにもなかったし、これで物語を終えてしまうのは、ダンボにまつわる様々な論点をすべて曖昧にさせることに繋がり、良くないと思った。


・本作の構成では、前半の40分程度で1941年版の物語を圧縮して語り、残りの1時間では本作オリジナルのストーリーを展開して語ることになっているのだが、後半では白人の資本家がどのようにしてサーカスを運営していて、そこに対して主人公がどう対抗するのか、という一種の権力闘争が繰り広げられていて、それを通して本作の主題では「サーカスが持つ搾取的な構造への疑義」が呈されている。確かに、一応最後には退役軍人操るダンボによって既存の権力的なサーカス団体というのは解体に追い込まれはする。しかし、1941年版のマイノリティの自己実現という主題をダンボ自体が持っていることからしたら、本作のそれというのはダンボの明快さに比べたら大人のあれやこれやが多分に混在していて、ゆえに、めちゃくちゃどうでもいいテーマだ。そしてそこに躍起になれるのは、せいぜい本作前半でサーカスを経営していたおじさん(そもそも彼が後半以降善人として扱われてしまっていることも、ダンボとサーカス団員からしてみれば異常なことで、これもひとえに本作の激甘なメッセージ性を助長している)と、すべての問題に対して謁見的な退役軍人くらいなのだ。


・本作ではロンゴという黒人男性が出てくるが、彼は最初からサーカス団員の中の「面白枠」として画角に映され続け、そして最後にも彼が資本を持ったり解放されたりすることはなく、サーカスの改修にもかかわらずいつもと同じく見世物小屋で働いている。こんなに賑やかしへの扱いとして酷い話はあるのだろうか。冒頭で、ロンゴや他の団員達というのが列車で運ばれてくるシーンは実際にあったサーカスの貨物運搬に関する映像の再現らしいのだが、このシーンでは、ダンボがサーカスの一員であると同時に、彼らがいかに搾取的な環境で働いているのかということが、「列車で動物と並列に運ばれる」ということのビジュアルから明らかに伝わるはずなのに、ダンボ以外のサーカス団員がそのまま終わるというのは、いくらなんでもどうかと思った。


・その他、白人女性の存在によってサーカスをめぐる権力闘争にさらに発破をかける構成となっていたが、正直そこには終始興味が湧かなかった。全体を通して言えることだと思うが、本作は特定の思想を持った人種にしか理解され得ないだろう。


・サイケ描写も、そもそもショーの本番中にサイケトリップが起こるわけないし、オマージュによるサイケは明らかにティムに求められていた仕事ではないだろう。


・総評。映像美とその統一感が非常にハイレベルになされているのは紛れもない事実なのですが、それがすべてサーカスの負の側面、つまり「見せ物」を「見せ物」として強調することでしか達成されておらず、むしろ「サーカスが綺麗だった」ことでしか本作を語れないことは、ダンボという存在が持っているメッセージ性とは確実に相容れず、やむをえず低評価とさせていただきました。個人的に、ただつまらない作品であれば低評価はしないし、大概の映画には高評価できる点があるのですが、特段ダンボというのが権威からの解放と自律を超直球的に訴えていた作品である点が非常に好きなポイントでもあったので、本作のほぼ逆を向く構成になっている点については、どうしても気になってしまいました。それもこれも、「1941年版が面白すぎた」ということにして、本作のことは有ゾウ無ゾウにしておきましょう。パオ〜ン。
a

a