tosyam

SUKITA 刻まれたアーティストたちの一瞬のtosyamのネタバレレビュー・内容・結末

5.0

このレビューはネタバレを含みます

たとえば汚い無名の町角その土地土地のラクガキごみ集積場所のごみリサイクルショップの店頭そこにはその土地土地に根ざしたラクガキとかはじめソレゾレのおもしろさがあったりする。住む人たちや訪れた人たち持ち込んだ買い取り客の集合的無意識のあらわれがみられる。新宿ロフトや中古レコード街で有名だった西新宿。町のいたるところバンドステッカー氾濫あれもそんな感じだった。それとかを誰かが面白いとして発見やっとその誰かによってそれが編集され紹介もしくは再検証される。そういう意味では一流の編集者であったエドガーアランポーは最高にカッコいい町角のストリート詩人であり。そしてそれがどんなものなのかをわかりすぎるくらいわかっていたそんな人だったといえる。今でこそdiyハンドメイドバンドtシャツの写真集などがあったりするけど。そうなのだムーブメントやシーンってその渦中にいた者だけにしか見えない風景サウンドスケープとでもいうしかない何か特別な何かがみえるときがある。つまり言葉を超えた深層イメージである。バンドステッカーやらファンジンやらクラブフライヤーやらフリーペーパーそれらエフェメラそのものもそうだが。それのコピーやデザインその制作者たるコピーライターデザイナーの存在も発見されてはじめて実存する。たとえば鋤田正義。発見されなければそれらはゴミでありノイズでしかない。リンゴアメは祭の時に祭りの場で食べるからうまい。普段たべてもそんなにうまくない。リンゴアメの旨さを何倍にもするためにこそストリートの公共空間の解放区のロビー外交でざわめく美術館ロビーの駅前広場の。それら都市論の開かれたイメージが必要となる。詩人そして芸術家カッコよくそう呼べる存在などもういないしこれからもうまれないしなろうとしてもなれない。詩が芸術だけが風に吹かれているばかり。中心はすべてがaiで管理され周辺はすべてがフラッシュモブに泡沫化。これからのストリートにはシーンもムーブメントも生じない。芸人の一発芸人化メーワクジケーダンユーチューバー化も無理もない。一発芸だけ。作品ですらない。ステージにおいてでですらない。ストリートでですらない。リモートでケータイの小さい画面内でこそしっかり笑えなくてはならない時代。まさにコネタそれも普遍的な時代を超えるようなそんなものしか残れない。だからどの町にもいる変なおじさんラクガキ小僧。葉書職人。投稿マニア。トーキョーもロンドンのようなニューヨークな。かつての原宿な。かつてのコーエンジな多民族都市にこれからなっていくのだとすればなおさら。彼らのなかのトビッキリカリスマだけを面白がっているだけの場合どころじゃない。そういうおっさんはどんどん消えていっている。しっかり赤尾敏のようなその芸がその面白さが。その町の後世につたわるようにしなくてはならない。
tosyam

tosyam