YAJ

万引き家族のYAJのネタバレレビュー・内容・結末

万引き家族(2018年製作の映画)
3.3

このレビューはネタバレを含みます

【生きろ】
 パルムドールはメデタイが、これ、カンヌの審査委員に分かったの?という部分がなきにしもあらず。「死亡通知を出さずに親の年金を不正にもらい続けていた家族が逮捕された事件」に触発された是枝監督が様々な軽犯罪を題材に採っている点で、日本の三面記事に慣れ親しんでいないと分からないんじゃないかというのが第一印象。

 例えば、終盤、母・信代から、「松戸のパチンコ屋」「赤いVits」云々というヒントをもらう息子・祥汰だが、その前の父・治の車上荒らしの場面と結びつけて、祥汰の過去に気づける観客は日本人ですら多くないのではと、ちょっと心配になった(海外でも似たような事例はあるのかな?)。

 あるいはカンヌは、以前出品された同監督による『そして父になる』を念頭に、家族の在り方について一貫したテーマを感じ取っての表彰だったのか。不思議な親子の成り立ちに確たる理解が及ばない(だろう)ことは、国外の鑑賞者のDisadvantageだろうな(余計な心配か?・笑)。

 しかし、それらをもオギナッテアマリアル物語と演技、演出に対する栄誉だとすれば、それはそれで尚メデタイ。
 奥の深いテーマを、説明過多に陥ることなく、映像と、極めて自然な登場人物同士の会話で紡ぎだした手練れの技への栄冠授与を心より祝福したい。

 良い作品は東京の片隅の狭小なロケーションでも成り立つのだ。



(ネタバレ、含む)



 巧い作品だなぁと唸った。
 奇異には映るが、ごく自然な家族の姿、気の置けない会話の応酬がお見事。是枝組の撮影手法の成せる業らしいが(詳しくは知りません)、「それ、台本の台詞じゃないでしょ?」と思うような言葉とテンポが随所に見られた(信代と祥汰がラムネを飲みつつ商店街を歩きながら、思わず信代がゲップをするシーン等々・笑)。あり得ない絆で結ばれた家族を、より家族らしく見せるのは、ごく自然な日常的な会話にあると熟知した監督の演出手腕に依るところが大きい。

 社会の底辺で暮らす、極々普通の家族と見まがう一家の物語。同日、昭和40年代の家族像を描いた作品(『焼肉ドラゴン』)を鑑賞していた。その一家と見較べても、家長の威厳は極端に乏しいが(家長役は、自分の中で和製ゲイリー・オールドマンなリリー・フランキーだ)、貧しいながらも互いを思いやり寄り添う姿は、社会の最小単位である”家族”の在り方、理想像そのものだった。
 ただ、その組成、絆は半世紀を経て大きく様変わりをしていることに愕然とさせられ、大いに考えさせられる。

 また、直後に思ったのは、これ警察や司法にしたら、たまらん作品だよな、とも。
 年金詐欺事件の報道に接し、事件の裏に「他人には理解しがたい、彼らなりに切実な“家族の繋がり”があったのではないか?」と監督は考え、DV、幼児虐待、育児放棄等々、家族にまつわる様々な社会問題を作品に織り込み、その現実的解決手段として誘拐、拉致、生活のための万引き等、生きる手段として犯罪に手を染める家族の姿を描く。
 テレビのワイドショーや新聞報道では到底知り得ない「他人には理解しがたい、彼らなりの」生活や心情といった裏側にこの作品は触れている。なんならそれは、警察発表はその表層しか伝えておらず、その検挙や司法判断では、コトの真相が見えておらず、本質的な解決になっていないと仄めかしているとも読める。

 父親が子どもに万引き教唆するシーン等は、教育上とか道徳上の批判も付いて回るだろうと想像できるが、いろんな意味で、思い切った作品に仕立てたものだと感心もした。

 柄本明演じる駄菓子屋の店主が、万引きを働く兄妹に「妹には、させるなよ」と、兄にさりげなく諭して聞かせるシーンがある。この時、脳裏に去来したのは、黒板五郎の「遺言」だった@『北の国から』;

”ここには、なんもないが自然だけはある。
 自然は、おまえらを死なない程度には、十分、毎年食わせてくれる。
 自然から頂戴しろ。
 そして、謙虚に、慎ましく、生きろ。 ”

 自然に対して人はなんら対価を払うことなく「頂戴している」。謙虚に慎ましく自然から「万引き」していると言い替えてもいい。

 父・治は祥汰に「店のものは、まだ誰のものでもない」と教えるが、その言葉が「ここには、なんもないが自然だけはある」と呟く五郎の声と重なって聞こえた。
 我々の生活をびっしりと隙間なく覆う都会のインフラや流通網、そして3分の1が廃棄されるという「食品ロス」の現状。そこには ”おまえらを死なない程度には、十分、毎年食わせてくれる” ものが、間違いなくある。
 祥汰は父の教えに従って「頂戴」しているだけ?!謙虚に、慎ましく。

 教育上とか、一般常識に照らすなど、大上段に振りかざせば、非は明らかではあるが、恐らく、この作品は、何が正しくて、何が間違っているのかは言っていないし、どう考えろとも言ってはいない(と思う)。

 生きるために、それぞれが選んだ暮しが、そこにあった。生きるために、家族を、親や子どもですら、自らの意思で選べるのかもしれないという自由な生き様を、無責任の誹りを承知で提示した、野心に満ちた意欲作。

 この時代に、この都会でも、謙虚に、慎ましく、生きろ、というメッセージを改めて受け取った。
YAJ

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