ガンビー教授

万引き家族のガンビー教授のレビュー・感想・評価

万引き家族(2018年製作の映画)
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賞というものは、タイミングが難しい。「確かにその作家にあげたかったのは分かるけどさ、あげるんならもうひとつ前の作品だったよなー」というようなことがザラにある。しかし、本作が是枝監督のパルムドール受賞作となったのは、最高のタイミングだったと思う。つまりそういう映画である。是枝作品が苦手な人でない限り、今作を見たほとんどの人が総意としてそう感じるのではなかろうか。特にフィルモグラフィを追っかけてきた人はそう思うはずだ。「集大成」というような表現は監督本人が嫌いそうなので避けるが、言い換えるならば、「万引き家族」は是枝監督のフィルモグラフィの現状最高到達点ではなかろうか。

本当にあらゆる意味においてレベルが高い。撮影、演出、脚本、編集、役者、何もかも見事。映画の内容について僕の文章力では書きおおせないことがたくさんある。特に誰もがはっとするであろう安藤サクラの演技。僕は松岡茉優を同世代の役者の中では最も「技巧派」だと思っているし、「いちばん巧い人」というのは言い過ぎでも何でもないと思うのだが、その技巧すらこの人の前でおいそれと持ち出すことは危うい、と思わせるほどにこの安藤サクラの演技には凄みが宿っている。知ってはいたが、本当に、すごい役者である。ほかにも、見た人が見た人の数だけ、演出か台詞か演技か、いずれにせよ圧倒的なものをその中に見いだせるだろうから、とにかく早いとこ劇場に駆けつけてほしいし、できれば以下の文章は映画鑑賞後に読んでほしい。微妙にネタバレしている。






是枝監督はテレビを出自に持ち、テレビドラマから影響を受けたとインタビューでも語っているので、そのあたりが作品の、(あえて語弊を怖れずに言葉を選ぶと)「ポップさ」に貢献しているのだろうと思う。今回の「万引き家族」も、その内容は非常に複雑で、繊細で、宙ぶらりんの結末を迎え、万人が納得するような結論は出せないような作品でありながら、それを表面上には理解しにくかったり取っ付きにくかったりすることのない「ドラマ」として構築してみせるあたりが手腕である。是枝裕和が国際的に知られた映画作家であることと同時に、その作品が人口に膾炙し、コアな映画ファン以上に広い裾野まで届いている印象があるのは、是枝作品がとりもなおさず「ポップ」であることによるものだろう。

是枝裕和の映画は、特にここ近作をもって、共同体の基本単位である家族という場を通じた日常生活のゆるやかで自然な素描をしてみせたかと思えば、時に突飛とも感じられるような劇的な設定や状況の中に人を放り込むことで物語を展開させてみせたりなどもして、別々の意味において「ドラマ的」というキーワードで形容できそうな二極のはざまで揺れているようなところがあった。一方で「海よりもまだ深く」を、一方で「三度目の殺人」を撮りながら、フィルモグラフィを一歩ずつ展開させてきた監督だったが、今作「万引き家族」は色々な意味において「ドラマ的」と形容するのが正しいであろうその作家性が極まった、「二極」が最も見事に融合した成果としてこの映画があるように思える。

この映画はリリー・フランキーと城桧吏という疑似父子がタッグを組んだ「万引き」の犯行過程を捉えたシーンから始まるのだが、ここでカメラがローアングルに始まるのには意味がある。一言で言うと、それはつまり「万引き」というものは通常のアングルではカメラに「映らない」からである。社会から見捨てられ隠されている人々にフォーカスを当てることと、この作品が犯罪をモチーフに取り上げていることは偶然ではない。彼ら自身が透明であることの裏返しとして、彼らは万引きという「日常の中に存在していながら、他人に見られてはいけない」ものに手を染めているのである。そしてそれは日常的な高さのカメラ――我々がふだん慣れ親しんでいる視線からは見えない。

映画というのは、「ふつうは見られないもの」を見せるメディアである。この「ふつうは見られないもの」というのは、何も地球が終了するときの光景といった大袈裟な例など持ち出す必要はない(それも確かになかなか「見られないもの」ではあるのだが)。例えば隣の家の中において――「家族」という最も身近な共同体の基本単位において――どのようなやり取りが交わされ、本当は何が進行しているのか、を垣間見ることは基本的にできないし、とある男女が二人きりで部屋にいるとき、男性からいっとき顔をそむけた女性がどんな表情をしているか……など有史以来誰か目にした人がいるはずもない。また、同じ街に暮らしているはずでも、大人が見ている光景からすると、子供が見るものや子供が属している世界というものはふだんの生活のなかでなかなか可視化されない。そういった誰の目にも映らないはずのものを、カメラという装置を世界に持ち込んで見せてしまうのがまさしく映画というメディアである。特に是枝裕和監督作品というのは、見捨てられた人々や世間から覆い隠されてしまった空間にカメラを向けてきた。

透明な人々であることの象徴として、彼らの家は目隠しのような生垣に覆い隠されている。この社会の中に取り残されたような「誰も知らない」空間において、四季を通じて彼らが営む、ささやかに幸福な、疑似的家族生活を描いていくのがこの「万引き家族」という映画のおおまかな枠組みとなる。彼らの生活を追っていく撮影の眼差しと、映画がそれを物語っていく語り口の正確な一致も見事であり見どころなのだが、しかし、その共同体生活は終盤近くの事件をきっかけに突如解体せざるを得ない状況に追い込まれてゆく。

万引きという軽犯罪、そして血のつながらない人々が子供を「誘拐」してきて作り上げる共同体というのはさながら社会に対する透明なレジスタンスとでもいうようなものである。彼らを見捨てた社会に対する復讐と言ってしまうと語気が強すぎるが、しかし彼らにとってしてみればどうしても生きていかざるを得ないわけだし、貧困を無視し、放置し、自己責任とし、あるべき保守的家族観を押し付け、落伍者を排除してきた社会に対して、彼らなりの場を作り上げて生きていくということそのものが抵抗となる。その「逃げ場」は現在のこの社会の息苦しさに耐えかねて逃げてきた者たちの一時の安息地となり、ユートピアの様相を呈してくる。しかし、役者たちの「自然な演技」でころっと騙されそうになるが、この共同体が自然発生的に生み出されたものなんかでは全くないということが、次第に明らかにされていくあたりも巧い脚本である。彼らに100%肩入れしてしまったような観客も、後半でその肩を押し戻されることになるだろう(ちなみに彼らに肩入れしてしまった観客の視点は、松岡茉優が代表しているように思う)。是枝監督トレードマークの「自然な空気感」は、本作の中においては、疑似餌なのである。

「では彼らはどうすればよかったのか?」という問いを立てること自体、この映画を見終わったあとでは困難に思えてくる。ここはドラマとしての設定や構築が上手くいっているのだろうが、物語は単純に彼らを正当化することもなければ断罪することもない。安易な教訓などには収斂させないよう、それらの逃げ道を監督はあらかじめひとつひとつ塞いでいる。だからこそ、映画が終わった後でずっと作品の内容について考えざるを得ないし、映画のなかには(はっきりとは)描かれていない社会や政治といったより大きなバックグラウンドへの作者の怒りというところに思いを馳せざるを得ないように作られている。周到である。

社会に対する透明なレジスタンスとしての彼らの共同生活は苦い敗北を迎えるように見える。しかし、作品が迎えるのはシンプルなバッドエンドや終焉ではない(是枝作品で何かが完全に終焉してしまうことは、基本的にはないように思われる)。ラスト付近でバスが走り去ったあと――ここからは僕の想像も含まれるのだが――あの疑似父子はたぶん二度と再会しないのではないか。日に当てられて溶けてしまった雪だるまのように、日のもとに引きずり出された「父親」はもう「父親」としての姿を保っていられない。そしてここが重要なのだが、その関係の幕引きは、親からではなく子供からもたらされる。それを悟ったからこそリリー・フランキーはバスを必死に追いかける。幕引きは切ないが、しかしそれが子供から行われた(ように見える)ということは、子供が自分の人生のある時期において、自分を養い育ててくれる父親としての役割を彼自身が選んだ相手に託していた、ということをも意味している。劇中で安藤サクラが言うように、まさしく彼らは子供から「選ばれた」のである。終盤で松岡茉優が覗き込むかつての家にはもはや何も残っておらず、そこはがらんどうでしかないが、少女が見つめる先、少年の進んでいく未来、画面の外側、映画が終わった先には、可能性がある。いっときの共同体から豊かな時間を受け取ったのであれば、その豊かさは彼らがこれから紡いでいく他者との関係において還元されていくのだと信じたい。この映画の希望は子供たちに託されているのである。
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