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ゲッベルスと私のdm10foreverのレビュー・感想・評価

ゲッベルスと私(2016年製作の映画)
3.9
【言霊】

まるで彫刻刀で力強く掘り込んだかのような深い皺(しわ)と、分厚いレンズの眼鏡の奥に時折見せる力強い眼差しは「時間の経過」と共に、それがまるで「昨日の事のような記憶」であることを的確に表していた。

この作品を撮影した時点でポムゼルは103歳。
その高齢の彼女が30時間もかけて語った「戦争の横顔」。

この作品では余計な表現や演出を一切省き、ただ目の前にある「素材」を自分の中でいかに消化(昇華)していくかを試されている。
従って劇中、最後まで音楽は流れない。画面には色もない。登場人物も当時の映像の引用シーンを除いてポムゼル以外誰一人いない。インタヴュアーさえもいない。
ただ、何もない部屋に一つ置かれた椅子に腰掛けたポムゼルが、淡々としかし時に激しく当時の事を語り続ける。

――――― 冒頭、長い沈黙が続く・・・。そこには何かを言いたげではあるが、中々最初の言葉が出てこないかのように、「ふぅ・・」と小さく息を吐きながらこちらとの距離感を必死に探っているポムゼルがいた。
やがて彼女はゆっくりと口を開き「あの時」の記憶を辿りだす・・・。

彼女は新聞社で働いているごく普通の若い女性だった。給料はそれほど高くはないけど、「生きていくためには何か仕事をしなくては」と、取り立てた美談も何もないくらい本当に普通の・・・。
彼女は偶然彼氏に連れられて共産党の演説に連れて行かれる。しかし彼女は政治には全く興味がなかった。彼氏には「もうこんなところには連れてこないで」と言ってしまうほど。
しかし、彼の知人からタイプライターの仕事を紹介してもらうことになった頃から彼女の周りが騒がしくなってくる。

あくまでもこの作品はポムゼルの目から見た『ナチス共産党』であり『ヒトラー』であり『ゲッベルス』の話である。いわゆる世界史に出てくるような歴史的事件や瞬間のことばかりではない。あくまでも彼女の日常の中にいつの間にか「ナチ」がいて、彼女が知らないうちに「戦争の中」に放り込まれていたのだ。

この構図って「この世界の片隅に」によく似ているなと感じた。特に序盤は。
しかし、あくまでも「庶民」の視点から見続けた「この世界の~」とは途中から明らかに趣が変わっていく。
ナチス共産党が徐々に国民の支持を得ていく中で、彼女は放送局の仕事を得る。それはナチスのいわゆる広報部門である。給料は当時では破格の待遇であった。
そこで自分の上司だったのが「ゲッベルス(ナチス政府の宣伝大臣)」であった。
ゲッベルスは当時のナチスドイツのプロパガンダの中心人物として知られており、大衆をナチス政府支持へと扇動した実力者の一人とされています。
その言葉は情熱的であり扇情的であり、彼の演説に民衆の歓声や拍手が鳴り止まなかったそうです。
しかし、彼女が知るゲッベルスは温厚で知性的で、とても感情を顕にして大声を出したりするような人ではなかったと語っています。しかし、数回だけ彼が部下を恫喝しているところを見かけショックを受けたとも・・。
きっとどちらが本当のゲッベルスなのか?と問われれば「どちらも本当のゲッベルス」という答えに行き着くのでしょう。
それがあの戦争も答えであり、ナチスドイツの答えでもあるのだと思いました。

今の若者たちの考え方についてもポムゼルは何度か触れていました。

「もし、私たちがその時代にいたら、きっと違う選択をしていただろうと若い人達は言う。でも本当に出来ただろうか?当時、私たちは既に<国家>という巨大な収容所の中にいたのに(ポムゼル)」

現代の若者の考え方を否定しているわけではありません。ただ、当時の人民はあまりに無力だったのです。気がついたときには既にナチスはドイツ人ですら手の施しようがないくらいに強大なものになっていたのです。
彼女が放送局でナチスの広報の仕事をしていたのも「オファーを受けたから」ただそれだけ。生活の為に仕事をしていたに過ぎないのです。そしてそれは運命であり、それを避けることは出来なかった、何故ならすでに自分達はその渦中にいたから・・・

ホロコーストのことも、当時国民は真実を知らされていませんでした。
比較的に近くにいたはずの彼女でさえ「この収容所には政府に逆らった人や殴り合いの喧嘩をした人など治安を乱した人が入れられるのだ」と思っていたのです。
恐らくそう思っていたのは彼女だけではないのでしょう。
ラスト、連合国軍の資料映像では強制収容所の死体置き場にドイツ国民を立たせ、その惨状を脳裏に焼き付けさせるというシーンが映し出される。死体の山を目の当たりにしたドイツ人達は一様に(なんという事だ・・・)という表情を浮かべ、ある者は号泣し、ある者は祈りを捧げていました。

ゲッベルスら「ナチ」の扇動によって一種の興奮状態に陥ったまま戦争に突き進んでしまったドイツ国民にも非がないとは言えないかもしれません。しかし、一人ひとりと考えるとそれはあまりに無力でした。

「私個人に罪があるとは思わない。ただ、ドイツ国民全員となれば話は別。あの政府にあれだけの力を持たせてしまったのはドイツ国民なのだから・・・(ポムゼル)」

これが全てなんだと思います。一人ひとりが見ていた戦争はあくまでも「生き残るための戦い」だったけど、いつしかそこに「数」が現れ、それはやがて「熱」となり、遂には「力」を持ち始めると、本来は個人が「日々を生き残るため」にしか捉えていなかったはずの戦争が「勝つための戦争」に色合いを変えていくという事。
そしてその過程を「これでもか!」と言わんばかりの説得力でただ語られる本作。

色んな意味で「つらい」作品です。
音楽も映像的な見せ場も殆ど無いため、テンポは一貫して単調なので、2,3度睡魔に襲われました。
しかし、劇中に挟まれる当時の資料映像が、ポムゼルの独白の裏付けとして淡々と事実を映し出していく様は、ある種無機質な映像でありながらも何故か目が離せなくなる。例えば何処までもリアルに生々しい映像で話題となったメルギブソンの「ハクソーリッジ」などとは全く違った意味で衝撃を受けるのです。
特にユダヤ人の遺体を無造作に扱う兵隊達を映すシーンでは怒りすらこみ上げてきました。

戦争を賛美することもなく、かといって個人的な後悔に苛まれるわけでもなく、ただあの時代を生きたという事はこういうことだと教えてくれるには、ある意味ではとても重要なインタヴュー映像なのかもしれないと思った。
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