【サンジャポ】
ストーリーが判然とせず難解な作品の場合、無意識に撮影手法に目が行く癖がついている。それが極端に顕著だった作品。
主人公アンナがまず登場。突然奇声を発し驚かされる。冒頭から不気味な展開。そこはスピリチュアルめいた演劇サークルか何かのよう。演劇メソッドで社会性の回復を目指すような場所だろうか(明示されない)。
舞台はベルギーのとある小都市。「慎ましやかに過ごしていた夫婦が、夫が犯したある罪により、その生活の歯車が狂い始め・・・」と作品案内にはあるが、“夫の犯したある罪”も、まったくもって説明はない。
夫との最初の外出シーンが、そのまま収監となるのにも驚く。ベルギーでは、このような出頭の仕方を描けば罪の内容に凡そ見当がつくのだろうか?(凶悪犯ではないとか、逃亡の危険性がない罪状とか) まったく曖昧模糊としたまま物語は滑りだしてゆく。
その後、ほとんどセリフのないアンナの演技が続く。狂った人生の歯車をどう修正していくのか、あるいはその狂いはさらなる破綻を呼び込むのか!?セリフは最小限、BGMらしきBGMもなく、それでよく描き切ったなと監督アンドレア・パラオロの手腕に感服してしまう。
説明的セリフや画面の迫力だけで、ボーっと鑑賞していても観た気になる作品が多い昨今、こちらの五感をフル回転させないと理解できない、映画らしい映画であり、文学的であり芸術的でもあった。
が、人には積極的に勧めないタイプの作品。公式サイトによると、アンドレ・パラオロの女性三部作の第1作に当たるらしい。制作中の第二作「Monica」(仮題)ではトランスジェンダーがテーマだとか。三部作を通して見えてくるものがあるのかもしれない。
主演シャーロット・ランプリングの演技が圧巻。見ていて気持ちのいい演技ではないが、目が離せなかった。日本でなら誰だろう。水泳のシーンがあったので吉永さゆり?いや、きれいどころでは務まらない。かといって、希林さんや片桐はいりのようなキワモノ演技でもダメか。演技力・表現力という点では、大竹しのぶあたりだろうか。
ヴェネチア国際映画祭(17)の主演女優賞の演技である。
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(ネタバレ、含む)
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あらゆるシーンに意味があったと仮定して、その何割を理解できたか?あるいは自分なりに意味を見いだせたかを数えてみると面白いかもしれない。実に映画的であり、映像に意味を持たせていた作品。ゆえに、撮影手法やカメラワークに意識がいったのも間違いじゃなかったのかもと思った。
例えば序盤、アンナの姿はガラス越しに捉えられることが多い。車や電車の移動中、彼女の姿にはガラスに映る風景が被さる。また、室内の鏡や窓に映ったアンナ自身の鏡像も意味深だ。
そして後半、カメラはそのガラスを越えてアンナと同じ空間に立つようになり映り込みは消えてゆく。その意味するところは、自分のものではなかった彼女の人生が、彼女自身のものになっていく過程だったと考えるのは穿った見方か。
終盤の印象的なシーンに砂浜に打ち上げられたクジラの姿がある。これは分かりやすいほうで、アンナ自身の、あるいは破綻をきたした人生のメタファであろう。海に帰ることができれば、また泳ぎ出せるのかもしれないが、浮力を失った陸の上では自分の力では動きようがない。この状態をアンナ自身、どのように打開していくのか?!
ラストシーンは地下鉄。そこへ至る前に、夫の罪の証拠となる写真を処分し(それは、階上の部屋からの水漏れで偶然気づくことになる)、里親への飼い犬引渡し、会うことの叶わない孫を遠くから眺め立ち去る。いかにも人生の幕引き準備と映るシーンが続く。
そして演劇サークルでセリフがうまく言えない精神状態になり部屋を飛び出し地下へ続く長い長い階段を下ってゆく。後ろ姿を追って被写界深度の浅いレンズ(=周りが極端にボケた映像)が至近距離でついてゆく。辿りついたホーム、徐々に大きくなる列車の轟音。少なからずの観客が「飛び込むのか?!」とドキドキするシーンだ。結果、彼女は、到着した電車に乗り込み去っていく。
肩透かしと共に、少しホっとするのもつかの間、画面は暗転して無音のエンドロール。観た直後は、置いてきぼりを喰らわされたようで茫然とするが、ずっと緊張感を強いられ、網膜に焼き付くような印象的なシーンの羅列は後々思い出して反芻せよということだろうと理解した。
ラストシーンに至るまで、執拗にアンナに寄り添うカメラが、地下鉄のドアが閉まった時に、ようやくアンナから離れるのも印象的だ。それまで、演劇サークルのシーンでは胸像アップだし、犬に餌をやるシーンは床に座り込むアンナと同じローポジに構える。着替えのシーンは皺やシミが露わになるほどの接写。水泳中の背中を追い、シャワールームにまで至近距離で立ち入る。地下鉄の長い階段を下るシーンもハンディで揺れながら後頭部を追いかける。
ところが、そのカメラがアンナの乗る地下鉄の車両には乗り込まない!?観客の視座をホームに残し、閉まる車両の扉の向こうアンナは去ってゆく。
このシーンをどう捉えるか。彼女は立ち直ったと見るか、我々も見放したと見るのか。その判断は観客に委ねられる。
そのラストまでに、再三登場する地下鉄のシーンは本作のキーシークエンスだろう。
最初、彼女の向かいの席で化粧をする若い女性の姿がぼんやりとアンナの背後の窓に映っている。次のシーンは車内で奇妙なダンスを披露する黒人男性の姿。3つめのシーンは、彼女の姿越しに大声で痴話喧嘩をし怒って下車する若い女性。
どのシーンも実に印象深いが、誰も彼女に直接絡んでこない。彼女の存在を無視したかのようだったなと、あとから気づく。己が居てもいなくても地球は回る。それを暗喩した地下鉄車両。そこに最後は乗り込んでいくラストは、自分を無視していた世界へ再び足を踏み入れ、世間との繋がりを求め直す彼女の決意だったのだろうか。
けっして特別ではない、ごく普通の老婦人の晩節の日々を描き、こういう人は身近にいるよとの示唆かと深読みついでに思ってみる。昨今の話題に絡めるなら(TBS『サンジャポ』6/2、太田光の言葉);
「俺は、すぐ近くにいると思うのね。彼(女)のような人が」
「今、自分て死んでもいいって思っている人は、もうちょっと先に、それを見つける。きっかけさえあればって思うんだよね。すごい発見ができる」
アンナは何か、きっかけを掴んだ。そして飛び込むのをやめて、車両に乗り込んだのかもしれない。
どのシーンをとっても明示的ではないが、このように様々な想像が働くのだった。各シーンを思い浮かべながら、たくさん話が出来るという意味では、一人で鑑賞するよりペア鑑賞がいい。それぞれのシーンがどんな意味を持っていたのか、あるいは監督は持たせようとしたのか、答えのない答え合わせを楽しめる。
意外と、面白い作品なのかもしれない。