20190918
それぞれのストーリーが存在するならば、序盤で加藤才紀子さん演じた野田さんを見つけてから、私にとっての主役は彼女だった。
彼女は何を思って毎日を過ごしたのか。
踏み出した一歩は何を意味したのか、そしてその後どうなったのか。
個人的には、あの光景から希望の類を見いだすことができず、映画を観てこれほどの苦しい気持ちになったことは久しぶりだった。
そう思わせることも、この作品のもつ力なのだろう。
そして、加藤さんの感情を見せない(出さない)演技が素晴らしかった。
主役だけが描かれ、他の人はその他大勢で終わってしまう
クラスの中の数名が順番で主役になり、事件が起こり解決する
そういう話は数多く観てきたけれど、主役がいながらも、全ての生徒の存在を絶妙なバランスで映し出していた。
だから観る人によって、さらにぼんやりしたり、想像を越えてヒリヒリしたりもするのだろう。
教室には曖昧にやり過ごしているような、だるくて重たい空気が終始漂っていた。
その生々しさたるや。
舞台挨拶で役者さんが余白の多い映画と話されていたのは、こういった部分も含めてと捉えたが、このような見せ方をする作品は初めてで、決して丸くおさまらないことを描いた誠実さを感じるとともに、ありのままを突きつけられた虚しさも色濃く残った。
私が見えていない他の生徒全員に、それぞれの日常があり、それを思うと想像を遥かに越えて深い作品なのだろうなぁ。
これは一人ひとりと向き合うとなると、とてもじゃないけど心がもたない。
そして、タイトル「左様なら」は"さようなら"の語源
左様ならば
左様なら
さようなら
劇中で朗読される詩は、気高く凛々しく、そして儚い。
諦めでもあり尊重でもあり
生きていくには流されなければやりきれないこともあるはず。
“左様ならば、仕方ない”
淡い色合いの映像や、甘やかなボーカルの音楽も、曖昧で複雑な感情の表れのようで、細部まで誠実な作品
ゆえ、私にとって教室という名の目に見えない箱は世界であり地獄だったことを思い出してしまったのでした。
随分と私情が入ってしまいましたが、厳密には共感ではなく、知っている感覚に触れた感じ…という方が近い気がする。
それでも、自分の感情の扱い方が分からないと、あの箱の中はやっぱり息苦しいね。
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20190915
はるか昔のことなのに
過去の記憶がばーんと降ってきてしまった。
教室やクラスの閉塞感
決まったグループで食べる昼ごはん
グループ決め
スポットは女の子ふたりにあてられているけど、自分に相当する子を達観しきれず、とても苦しかった。
もっと伝えたいことがあるのは分かっているが、そこに踏み込む前の壁
これはクラス全体を描く作品の宿命かな。
同時に、これだけ生々しく感じたのは、監督や役者さんの力だと思う。
時が経ってもそう感じるから
年頃のそのような境遇の子には
少々刺激があるのかも。
・・・というのが直後の感想。
ごめんさんの詩がとても美しかった。