YAJ

Girl/ガールのYAJのネタバレレビュー・内容・結末

Girl/ガール(2018年製作の映画)
3.8

このレビューはネタバレを含みます

【イタイ話】

 本当の自分自身に気づく15歳。
 古今東西、縦横に語りつくされてきたモチーフも、現在では「ジェンダー」の問題を絡めて描かれる。監督のLukas Dhontの初長編作品でありながら、各映画祭で様々な賞を受賞するのも、そのテーマ選びの的確さもあってのことだろう(第71回カンヌ国際映画祭では、LGBTをテーマにした作品に贈られるクィア・パルムを受賞。そんな賞もあるんだ!?と驚く)。

 題材は時代性を帯びているが、描かれた主題は普遍的だ。思春期の、まだ何者でもない自分が、いかに自己を獲得していくか。その舞台が、バレエ界であり、この作品の主人公の場合、トランスジェンダーという難しい問題があることで物語を際立たせている。

 一番特筆すべきは、主人公を演じたVictor Polsterの存在感か。ロイヤル・バレエ・スクールの現役トップで舞踏シーンの本物感は申し分ない。加えて、トランスジェンダーという難しい役どころを、「この人、実際もトランスジェンダーの人?」と思わせるだけの説得力を全身で表現している見事さがあった。演技そのものは、口数少なめで、感情の起伏も大きくなく、良し悪しは判別しにくい演出だったが、体現している存在感だけで観る価値はあったか。

 バレエに限らず、スポーツでも、美術、音楽の世界でも、思春期の体と心の成長による変化への戸惑い、葛藤はつきものだ。自分探しの旅路で、ひとつの課題としての「ジェンダー」が、奇をてらわずに並列に置かれているという、実に「現代的」な青春ストーリー。
 製作国のベルギーは、なにやらジェンダーの問題については先進国とのこと。知らないことによる偏見払拭の意味でも、こうした作品は鑑賞価値ありです。

 エンディングの選曲の見事さもPoint Up!



(ネタバレ、含む)



 ジェンダーを話題にしていなければ、思春期の普遍的なテーマを描いた作品。いや、ジェンダー問題が、普遍的なテーマとして当たり前に浮上してきていると考えるべき? むしろ、当たり前すぎて、主人公ララの、ジェンダーを越えた気持ちの問題、人間性の問題というところに目が行きそうになる。そう感じさせるほど、ジェンダーという問題が、舞台となったベルギーでは、非常に“理解された”ものとして描かれている点は見るべきところ。

 実は、主人公の彼(彼女?)ララは、十分に恵まれている。こうしたジェンダーの物語では、家族・親族の不理解や周囲の好奇の目をいかに乗り越えていくかから始まりそうなものだが、ララの父親は非常に理解があり、性転換手術を行う医者やカウンセラーも手慣れたもの。ごく自然体でララと接している様子が描かれる。特に、医師団の対応が冷静で、実に科学的だ。順序立って段階を踏まえれば、なんの問題もなく性転換は可能であるとララを安心させるに足る対応なのだった(逆に手順が確立されてるが故に、思春期の焦燥感に寄り添えなかったという点もあるのだけどね)。

 また、バレエダンサーとしてララを受け入れるスクールでも、ララの努力を認め、またトランスジェンダーであることを隠そうとせず、同僚のダンサーたちにも理解を求める。
 安易に想像できる旧い価値観に囚われた親世代の親族や、意地悪なライバルの存在が、一見どこにも見当たらない。

 そうなってくると、今、この悩み、問題を乗り越えるのは、ララの個性、キャラに負うところが大きい。
 確かに、同性のバレリーナたちの無邪気な好奇心は、ララの心を傷つけたであろう。ままならない恋も心の葛藤を生み、大いに理解ある父親でさえ、日常的には、息子に接するかのように不用意にノックもせず「娘」の部屋の扉を開けて、ララのストレス蓄積を助長していた。
 そこでララが、サバサバと対応できる強さがあれば、隠し事をさらにオープンにしていく図太さがあれば、事態は変わっていたのだろうけど、そうは出来ない弱さが、観ていて痛々しかった。 
 どんなに良き理解者がいようとも、思春期の悩みは孤独なものというのも分かるけど、そこは明るくいこうよ、と思うところが多かった。ララのイタイ性格が、なんとも居たたまれない(だからこそ、映画として成り立っているのだけどね)。

 バレエの公演が迫る中、バレリーナとしては体を絞っていかねばならず、一方で性転換手術を受けるためには健康体を保たねばならないジレンマ。15歳の肉体は、どんどん二次性徴を起こし、自分の望まぬ方向へと変化していく。その焦りや、越えなければいけない問題を、最後まで孤独に抱え込んでしまったララがイタイ。 そして、イタイイタイ結末へ(><)。

 ラストシーンの印象は、我が家でも意見が割れた。
 地下街でストリートミュージシャンの演奏する横を颯爽と歩き去るララ。
 ストリートミュージシャンが演奏していたのは、うちの奥さんによると「Ombra mai fù」という曲だったらしい。ヘンデルのオペラ『セルセ』の第1幕で歌われる有名なアリアだそうだ。
 Wikiを引くと、その1幕は、
「セルセには遠い国にアマストレという婚約者があった。アマストレは危険を避けるために男に変装してセルセのもとまで旅するが、セルセが自分以外の者と結婚しようとしていると知って怒り、男装を解かないままセルセに復讐しようと考える。」
男装? 性を偽る登場人物の存在がイミシン。

 ララの思春期の苦悩や葛藤は、ララにとっては過去のもとして昇華されたのか。達観あるいは諦観した表情であったのか? 過去を”切り捨て”、新たなステージを目指す表情だったのか? 
 ララの痛々しいまでの決断が、いずれの結果をもたらしたかは明確には語れらないが、「Ombra mai fù(懐かしい木陰)」という、タイトルもイミシンな曲に見送られ笑顔を見せるララは、きっと大丈夫なんだろうという安心感を伴った余韻を残して物語は幕を下ろす。
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