映画大好きそーやさん

鴨が好きの映画大好きそーやさんのネタバレレビュー・内容・結末

鴨が好き(2018年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

孤独な少女が会得した、唯一の気持ちの宥め方。
皆さん、また時間が経ってしまいました。
短編であればすぐに書けるだろうと、軽い気持ちで本作を観て絶望しました。
イマジネーションをそのまま具現化したようなアニメーションのダイナミズムに圧倒され、1分もしないうちにとんでもない怪作を選んでしまったことに気が付きました。
ですが、1度手を付けたからには挑まねばと自棄になり、2度目の鑑賞を始めると1つ1つの描写が徐々につながっていって、実は繊細でエモーショナルなドラマが描かれているのではないかと思うようになりました。
3回目で自分なりの核心を掴み、いざレビューを書こうと参考がてら他の方のレビューに目を通したのですが、全然内容に触れられていないレビューばかりで驚かずにはいられませんでした。
であれば尚更書く意義があるだろうと、本気を出すことを決意した私は、全シーンを文字で書き起こして網羅的な考察を行うことにしました。
そこで、ハッと思い至りました。これは『仮面/ペルソナ』の時とそう変わらないし、なんなら『仮面/ペルソナ』(OPにあたるモンタージュ)が6分40秒ほどだったのに対して、本作は7分40秒と1分長くなっているではないかと。
走り出したら止まらないのが性分であるため、もう過酷が確定した道をただ突っ走っていくこととなりました。
そして、ようやく解析に次ぐ解析を経て、この本編へと辿り着きました。
前口上が長くなりました。これより冒頭で示した結論に至った過程を、丁寧に追ってまいります。どうぞよろしくお願いします!
さて、本作は幅広い解釈が許された余白の多い作品です。
ですので、私がここに書くことが正解という訳でもないし、不正解と切り捨てられることもありません。
一般通過映画好きが考えた一説として、捉えて頂けたら幸いです。
本作は、基本的に冒頭で縄跳びを回していた青い髪の少女の妄想で進行していくストーリーです。
そして、少女が出てくる場面だけが少女の主観を反映した現実世界だと考えています。
この時点で混乱必至な書き出しでしょうが、なんとか耐えて下さい。
1番最初のカットは、箱からホールケーキが取り出される描写ですが、ここから作中の現実世界では今日が少女の誕生日であったことが分かります。
ただ少女は1人で公園の置き物であるクマに端を括り付けて縄跳びを回しています。おそらく少女には仲のいい友だちはいないのでしょう。
その直後、席に着いた少女の前には、イチゴのショートケーキが置かれています。
ここで注目したいのが、少女の服装です。
公園で縄跳びを回していた時には白かった服装が、なんとイチゴのショートケーキと対面している時には黒い服装に変わっています。
ここから安易に想像できるのが喪服に変わったということ、ひいては近しい血縁者、近親者が亡くなったということです。
両親のどちらかということも考えられますが、両親のどちらかの場合はその前後でもっとその存在を匂わせてもいいし、ほぼ全編に渡って鴨が好きなおじさん(以降、鴨おじさん)の妄想をする意味が分かりません。
よって、全編に渡って登場、さらには作中で火災にあった可能性が示唆されている、鴨おじさんの死を悼んで、少女は黒い服を着ていることが予想されます。(2人の関係性に関しては謎ですが、近しい血縁者という考察の根拠として、髪の色が同じというものがあるように思います。本編ではそれくらいしか見つかりませんが、ショートフィルムである以上その程度でも十分だと判断しました)
もう1つ触れておかねばならないポイントは、少女がショートケーキを食べようとした時、ケーキの妖精?らしき生物が少女の元から逃げ出したことです。
この伏線は後半で涙なしでは語れない回収がなされますので、覚えておいて下さい!
この後は、少女の妄想によって自由自在に駆け巡る、鴨おじさんの大冒険が始まります。
大事なことだけ触れますと、赤い服を着た背の高いカップル(以降、赤カップル)が作中姿を変えながら(恐らくですが、池のほとりのベンチに座っていた、赤い服を着た坊主2人組も赤カップルだと思います)、おじさんの近くで身を潜め続けます。
不気味さを演出する意味も勿論ありますが、それ以上にこの赤カップルには少女の作り上げた、不条理という名の仮想敵という意味合いがあると考えています。
少女は歳を重ねていないこともあって、自制の仕方が分かっていません。
それを教えてくれる人にも恵まれず、遂には唯一自分を許してくれた、或いは一緒にいてくれた(いてくれることになっていた)おじさんまで失ってしまいました。
この深い悲しみを伝える相手も、受け止めてくれる相手もいません。
両親という選択肢があるのなら、とっくの疾うにこの問題は解決していたでしょう。
いないからこそ悩まざるを得ないのです。
そこで、考え出した方法、自分を救う方法こそ、敵を作ることだったのではないでしょうか!
敵というのは分かりやすいです。すべてを擦り付け、現実逃避することができるようになります。
これが正しいかどうかは関係ないです。少女にとっては、これしか自分を保てる手段がなかったのです。
この赤カップルとの決着が、本作のゴールとなっているのはそういうことだと解釈しています。
結論から逆算する手法はズルのように思われるかもしれませんが、作中に登場するYとプリントされた服を着て、部屋の壁にYと書かれた紙を貼りまくっているおじさん(以降、Yおじさん)は少女が用意したマッチポンプであり、救う手立てが勝手に完成してほしいという、子どもだからこその思想を反映したものだと解釈しました。
鴨というモチーフは鳥の延長線上で、最上級の幸運、ポジティブを舞い込ませる意味があったと考えています。
というのも、中世の魔女狩りの時代における魔女の使い魔として忌み嫌われていたことから転じる、不幸(死)を運ぶ縁起の悪い生き物の「黒猫」を無視して、解放や自由、幸運を取り込むといった意味合いをもつ鳥に興味を持つというシークエンスがあり、その後鳥を見たことによってか川の上を飛ぶという、現実ではあり得ない事態が発生します。
嬉しさや興奮、状況の好転を予期させる描写の前には、鳥が描かれていました。
鴨は「鴨が葱を背負って来る」という諺があるように、都合の良い展開、幸運が舞い込む前兆を予感させ、普通の鳥以上にポジティブな印象を受けます。
作中で鴨を目の前にし、用意していた餌を与える鴨おじさんは未来が良いものになると信じて疑っていない表情を浮かべますが、その運動もすぐに断ち切られます。
ここも少女の心情とリンクしており、否が応でも降り掛かってくる現実に押し潰されそうになっていることが想像できます。
とぼとぼと家に帰ると、妄想の中でも現実が顔を出してきます。
燃える鴨おじさんも登場し、事態はいよいよ佳境、Yおじさんもシステム的に動き出します。
コーヒーは常に描かれ続けてきたモチーフであり、カフェインによる覚醒作用(妄想の加速)や、冒頭で投げたコーヒーカップが終盤の鴨おじさんの頭にぶつかるシーン然り、最後に赤カップルにコーヒーカップを投げつけるシーン然り、何かに気付かせる起点やスイッチの役割が与えられていたと思います。
逃げてきたケーキの妖精が鴨おじさんに食べられるシーンで、恥ずかしくも私は泣いてしまいました。
少女はずっと待ち望んでいたことでしょう。
誕生日は鴨おじさんと一緒にケーキを食べられるんだと、その日が、その時間が来ることを、心待ちにしていたに違いありません。
いつもなら寂しい1人の公園も、後で鴨おじさんに会えると思えばヘッチャラでした。
なのに、時間になっても一向に鴨おじさんは現れません。
両親が鴨おじさんと食べるようにと、用意してくれたホールケーキを切って食べようとしても、なかなか手は動いてくれません。
そんな少女の思いを代弁するように、ケーキは妖精となって走り出しました。
どこに向かうのか。そんなの決まっています。少女の心の中にいる、鴨おじさんのところです。
ケーキの妖精は何かに気付かせるようにコーヒーの入ったカップを倒し、誰かの足元に届かせました。
鴨おじさんは使命を全うせんとコーヒーカップを投げ、燃えずに済んだ自分に事の次第を気付かせます。
数々の奇妙な存在と相対しながら、燃えた自分と合流し、少女の願いである一緒にケーキを食べることを達成させた後、復讐するが如く赤カップルに、少女の思いを乗せてコーヒーカップを投げつけて終わるのです。
なんと気持ちのいいラストでしょう。
ほのかに匂わせつつ書いたつもりでしたが、少女の会得した、自分の宥め方、慰め方、救い方は、それしか選ばざるを得ないから選んだものというのがミソです。
必ず敵がいる訳でも、自分が悪い訳でもない。それでも、まだ世界に疑問をもちたいから、世界をどこまでも信じていたいから、こうやって戦うことを選んだのです。
私はこの少女の選択に、自分のやるせなさ、目撃していながら教えてあげる、導いてあげることのできない無力さを覚え、胸を痛めました。
本作を、ただの愉快なアニメーションという、単なる一面でしか判断しないのは本当に勿体ないです。
ぜひそれぞれの描写を意味付けし、つなぎ合わせることで、自分だけの『鴨が好き』を作ってみて下さい!
正直、かなり端折って書きました。
全シーンの解釈を書いていっても良かったのですが、あまりにも長いレビューとなってしまうので止めました。
短くすることを誓ってからなんと言う体たらく、最低でしかありません。
本当に長々と失礼致しました。
私の考えたことは半分ほどでも伝わったでしょうか。半分と言わずともニュアンスだけでも伝わっていたら嬉しい限りです。
総じて、イマジネーションの暴走とも言える奇妙なアニメーションでありながら、根底に流れるエモーショナルなドラマに泣かされる怪作でした!
※今回、考えに考え抜いたことで生み出された、膨大な情報をすべてお伝えすることは控えさせて頂きましたが、もし興味をもった方がおりましたらコメント欄に考察全文を貼り付けておきますので、ぜひ見てみて下さい。
次回は200本記念として、スペシャルな内容でお届けしますのでお楽しみに!