TOSHI

蜜蜂と遠雷のTOSHIのレビュー・感想・評価

蜜蜂と遠雷(2019年製作の映画)
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蜜蜂と遠雷と聞いて、農村の若者を主人公とした根岸吉太郎監督の新作かと思ったが、全く違った(昭和世代にしか、通じないギャグだ)。あるようでなかった、ピアノコンクールを舞台にした映画だ。

幼少時代の、母とピアノを弾いている記憶に重なる雨の滴の映像が美しい。ポーランドで映画を学んだという、石川慶監督の映像感覚に、目を見張る。ピアニストの登竜門となっている、芳カ江国際ピアノコンクール。かつて天才少女と呼ばれていた亜夜(松岡茉優)は、母親が亡くなってから、ピアノが弾けなくなっていたが、7年ぶりにコンクールに復帰する。彼女は母の死後、直ぐに行われたコンクールで、手が動かず、逃げ出した過去を引きずっていた。
亜夜は、母にピアノを習っていた、名門ジュリアード音楽院在籍中のマサル(森崎ウィン)と再会する。マサルは完璧な演奏で、今大会で最も注目されていた。一方、高島(松坂桃李)は、妻子と暮らす、楽器店で働く会社員で、年齢制限で最後となるコンクールに挑み、「生活者の音楽」を志向していた。
そしてもう一人、亡くなった伝説的ピアニスト・ホフマンの推薦で参加した、独創的な演奏をする塵(鈴鹿央士)がいた。本作は、コンクールで競う事になった、4人の天才に焦点を当てた物語なのだ。
しがらみに縛られていた3人に、ホフマンの推薦状で、審査員達次第でギフトにも災禍にもなるとされていた、新たな才能である塵を巡って起こる、化学反応が見物だ。亜夜と有名ピアニストで審査員の一員・三枝子(斉藤由貴)とのコントラスト、コンテスタントと、彼らを見下していたオーケストラの有名指揮者・小野寺(鹿賀丈史)とのバトルも物語に厚みを加える。

日本映画は外国映画に比べて、俳優が観客に近いために却って、役柄に対して、「この俳優がそんな人である訳ないだろう」という、作品に対してノイズとなる感情が起こりやすいと思う(お決まりの、俳優達がバラエティ番組に出演する番宣も、役柄と違う素の姿を見せるのは、映画への没入を削ぐ、矛盾した行為だと思う)。
本作の俳優陣も、クラシック音楽の才能を持つ人、業界関係者とは思えないキャスティングが目につく。コンクール運営側の光石研(クラシック音楽という柄じゃないだろう)や記者役のブルゾンちえみ(プロの俳優を押しのけて演じさせる必然性は感じられない)などだ。そして主役の松岡も、天才ピアニストと言うには無理を感じていた。しかし、品格のある美しい映像の中、展開される、緊迫感のあるドラマに、次第にミスキャストが気にならなくなり、肯定してしまうようになるのが、力のある作り手による映画のマジックだろう。
クライマックス、精神的に突き抜けた亜夜を演じる松岡が凄い。中盤まで決定的に欠けていると感じた、悲運の天才の“業”が、最後に表現される。
本作の映画化が困難と言われていたのは、原作にある、「閉じ込められている音を外に連れ出す」、「自然を音に取り入れる」という感覚の表現にあるようで、その観点では不十分に思える。しかし、美しい映像で捉えられた、緊迫感のあるドラマは、見応えがあった。尚、タイトルの意味は作中で明らかになるが、本質をなぞるような、隠喩的な物だった。

本作には特に、現代性は感じられない。しかし、誰もスマホを使わず、音楽に全てを賭けている姿は、現実から浮遊すると共に、風穴を開けており、今、世に問う価値がある作品だろう。
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