つかれぐま

キラーズ・オブ・ザ・フラワームーンのつかれぐまのレビュー・感想・評価

5.0
23/10/26@新宿ピカデリー❸

【アメリカの縮図】

体調を整え、朝から水分を断って3時間半に臨んだ甲斐があった。それほど長く感じなかったのは、早からず遅からず絶妙なテンポで進んだお陰か。こんなおぞましい話を、見せ切ってしまう名匠の力量。

モリーと捜査官=善のサイドから書かれた原作(既読)と違い、映画はヘイルとアーネスト=悪のサイドからに。この改変によって映画はスコセッシ得意のノワールへ印象が変わり、加えて捜査官がヒーローになるお決まりの「白人酋長モノ」からの脱却にも成功している。捜査官が切れ者に見えないのも、そんな演出意図だ。

こんな緻密な戦略の下で、ディカプリオとデニーロというスコセッシの新旧「ミューズ」がその演技で火花を散らす。自分の頭で考えることを拒み、何事も決断せずにその場その場で流されていくダメ男・アーネスト。そんなアーネストを言葉巧みに利用し、私腹を肥やしていく「自称キング」ヘイル。彼が己の正しさを信じて疑わない「迷いの無さ」が怖かった(言葉とは裏腹なヘイルの邪悪さを暗示する不穏な音楽が見事)。この二人の関係に感じた既視感。その正体はトランプ(ヘイル)と彼に盲従した愚者(アーネスト)の姿かな。もしやこういう警告をアメリカ人に示すため、逆算して作られた脚色なのでは?とすら思えてきた。80を越えてなおそんな映画を作り続けるスコセッシ。今年観た某国某老齢監督の世迷言のような作品とはえらい違いだ。

「オセージ族のための映画ではない」
良くも悪くもその通りだと思う。不労所得を得たオセージ族は、働かず浪費し酒にも溺れる。自分のことを自分でやらないから我が身を守る術がわからない。オセージ族を過剰に美化しない本作からはスコセッシの誠実さを感じた。『グッドフェローズ』から連なる「美化しない美学」が本作にも通底しているのだ。

ひとつだけ例外なのは、モリーだ。
原作のモリーには本作ほどの魅力はない。だがこれもディカプリオ&デニーロという最凶ダッグに対峙させるためには必要な改編であり、それに応えたリリー・グラッドストンの演技と存在感は素晴らしく、二人の名優にも負けていなかった。たんなるエンタメとしての見栄えだけでなく、白人の搾取構造に毅然と立ち向かうマイノリティーという構図。そのアイコンとしてモリーの理知的な佇まいが機能していたかな。

原作未読だと分りにくいが、ラストのショーの意味は、結局この事件が解決したのは、FBIを立ち上げたフーバー長官(映画には登場しない)の功名心であり、悲劇すらもセンセーショナルな宣伝として消費されてしまうということ。そのことを詫びるかのように、第四の壁を破って登場するスコセッシ本人。その眼にうっすらと涙が浮かんでいたのが忘れ難い。