しの

王国(あるいはその家について)のしののレビュー・感想・評価

4.4
取り返しのつかない所から始まる話であり、ではそこで何があったのかという真実に何とか近づこうとする試みを、役を演じようとすることに見出すという濱口作品の系譜。しかし本作は虚構になりきらない虚構の反復によって、虚構のイデア(=真実)を現出させてしまう。

冒頭と終盤で所謂フィクションのパートが映されるが、しかしそれも完全なフィクションではなく、演技含めどこか作り物らしい。それ以外は基本的にホン読みやリハーサルの繰り返しであり、ロケ地の空絵などもそれ自体は遊離している。つまり“本番”が一度も映らない。むしろ本番になるギリギリ手前で止めている印象がある。

基本的には役者がリハーサルを重ねて段々と役を会得していくのだが、しかし直線的にフィクションへと近づくのではなく、役に入り込み過ぎたり、また棒読み寄りになったりを繰り返す。そういう編集にしている。映像にしたってほとんど役者の顔のアップだし、しかもそれが発話の主体ではなかったりする。切り返しがあってもヒキ画があってもそれはリハーサル風景だし、かといって外撮影があっても演技が露骨に未完成だったりする。意図的に「映画」にさせないようにしているとすら思えるのだ。

つまり我々は、虚構になりきらない虚構のカオスな断片を寄せ集めて想像することでしか、本作の劇中劇(=完全な虚構)に近づき得ない。それは役者が手探りで役に近づいていく営みとシンクロし、更には劇中劇の主人公が既に失われた「王国」を求める様とシンクロする。

これはつまり、「決して理解し得ないはずの何かに想像を巡らす」こと自体が本作における物語であり、映される映像であり、体験であるということだ。通常、虚構を形成する物語や映像があって、その鑑賞の副産物として想像の体験があるが、本作はその関係が逆転している。

しかしこれだけ実験的で何重にもメタフィクショナルなのに、観ていて面白かったのがすごい。それは、リハーサルの反復によって次第に情報が明かされていったり、散らばっている時系列が次第に全体像をあらわしたりと、ある種のミステリーとしても観れるようになっているからだ。

とはいえ、本作は劇中劇の全体像を見せることはない。はじめ事件の全容はパブリックな文書で伝えられるが、ラストでパーソナルな文章がそこに抵抗する。それはもはや主人公とその友人にしか分からない、言葉の外にある何かであり、第三者には伝わらないはずのものだ。しかし、観終わると確実に自分の中で「王国」が何かしらの像を結んでいる。2人だけにあった居心地の良い関係性の空間。自分はそれを決して体験できないが、こういうことなんだろうと想像しその一端に触れることができる。まさにそれが虚構であり、真実なのではないか。

その意味で、最もリハーサルが反復される「マッキー」のくだりは切ない余韻を残す。主人公はあそこでかつての王国の一端に触れるが、もう一つの王国がそれを阻害する。と同時に、3人の王国が一瞬だけ顕現した瞬間でもあったはずで……。それがコミュニケーションということなのだ。そして本作で徹底的に不在を強調される娘の存在。正直、子どもの殺害を物語のギミックに利用するのは浅はかな気もするが、しかしラストであの子が確かにこの家に生きていたのだという「想像力による実感」を示すあたり、虚構の責任を示しているようでフェアではあったように思う。

観終わってみれば、あれほど映画であることを拒否し続けるような内容だったのに、自分の中で本作の劇中劇が「映画」としての像を結んでいるのだ。理解し得ない他者に想いを馳せるという映画の効能を、映画でないものを映画にしようとする体験で示す。凄まじかった。
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