芸術とは、敵に対する武器だ。
では敵はどこにいるのか。
彼は何を見せてきたのか。彼らは何を見てきたのか。我々もまた何を見にきたのか。
現在の自分は現在、現在の常識に流されて、のうのうと生きてはいないかと、ヨーゼフボイスに思う存分挑発される。
折に触れて見直し続けたい映画。
出会うタイミングが良かった。
自分を引退するのかい。しないのかい。どっちなんだい。自分から逃げることはいつでもできるんだけども。
ドキュメンタリーの演出として、飽きさせないような邪魔にならないような変化をつけながら、過去と現在をうまく繋ぐことで、彼の傷を表現する。余計なものはなし。まるで超熟みたいだな。
視点は彼自身と彼を見る他者とで。それと少しの音楽とで。それだけで非常に論理的に作られている。
この点は坂本龍一さんの推薦コメントに多分多分に影響されてると思うので、文句は龍一氏にお願いします。
そしてそれは彼自身が論理的だから成り立つのだとも思う。
奇才と呼ばれた男は非常に理論的であるが故に人は集まり、信頼される。彼の言葉と行動が一致しているからこそ。
そうして彼は挑発する。
脳の中にもう1人の自分の顔があるのか。
自分の外にもう1人の自分の顔があるのか。
芸術とは名前であるとすれば、芸術とは人で、思想だから死んでからしか完成しない。人間は死なないと終わらないから、芸術が死んでから評価されやすいのは当たり前な気がした。
その上で彼は生き様を走り続けた。
おそらく彼にとって全ては自己プロデュースである。というとチープになるけど。カメラや映像に残る彼も全て芸術の一部なんだろう。
「なぜ乳母車にしなかったのか。
自分で決めたテーマだからだ。
それはお前がすればいい。
それが面白いとは思わないけどね。」
周りに芸術家と規定されたら芸術家でいい。
最も客観的でナイーブな男とも言える。
彼は既存と理論の外側にある場所で人間性を彫刻した。
大地に根をはる思想でお前の石を動かせ。
観ながら、人はいつ死ぬのか、それは人に忘れられた時だ。って名言を思いつきました。漫画でも描こうかな。
あと途中で思考を促されすぎて早く終われとか、一回止めてくれとか思ってしまった。
素晴らしい映画体験ができたと思う。
欠落を力の源にできる。蓋をせず、その足りなさをはじきかえす力がある。そんな能力が自分も欲しいな。