イホウジン

ナイトクルージングのイホウジンのレビュー・感想・評価

ナイトクルージング(2018年製作の映画)
-
バリア“フリー”ならぬ、バリア“デストロイ”を追体験できる衝撃作!

映画としても話の順序がとてもハッキリしており、中身の濃さの割に観やすい。ドキュメンタリー映画はどうしても監督の考え方が中心となりがちだが、この映画ではあくまで加藤監督の考え方や心の動きに焦点が置かれており、まるで劇映画を観ているかのような感覚に陥ることも出来る。

一般に健常者と障害者の間には「バリアフリー」という配慮がなされるが、フリーという言葉が用いられる以上、一方が相手方の立ち位置に上がる/下がるという気遣いをしなければならないという暗黙の了解がある。確かに世界はそれで保たれていて一定の平和を確保は出来るが、それが本当に「よりよい世界」なのだろうか?
この問いに真正面から立ち向かったのがこの映画なのだと思う。映画の主導権は完全に、というか当然、自分で映画を撮ろうとする加藤監督である。観ていて違和感が全くなかったが、考えてみれば前代未聞である。通常障害者が対象となる映画は、それが福祉のジャンルに収められ、健常な我々の視点から彼らを優しさの名の下の暴力が振りかざされてしまう。まるで腫れ物に触れるかのような対応は、映画に限る状況ではないだろう。
しかしながら、この映画では健常者の我々が本来理解出来なかった(もしくは、しようとしなかった)「見えない世界」がまるで手に取るように捉えられるようになる。その興奮を感じると、今度は「私たちは本当に世界を“見て”いるのか?」という疑問も浮かび上がってくる。確かに目の見える我々は当たり前のように色をとらえ見かけであらゆる事象を判断するが、果たしてそれを常識として良いのだろうか?映画内でも、「イケメンとは?」「色とは?」と言うような監督の疑問に科学的なアプローチで説明がなされるが、観ているこちら側も成程と感じてしまう以上、もはや実際に“見て”いる我々の知覚さえも揺らいでしまうのは否めない。
そしてこの映画の最大の魅力は、加藤監督と撮影スタッフ陣が互いに「人として」やり取りしている所である。互いの「世界を知りたい」という好奇心が両者の距離を縮め、“見える”“見えない”の次元を超えた全く新しい知覚が誕生する。最早そこはバリアのある世界を越えた、バリアが破壊された世界である。この破壊行動はかなり乱暴な要素も含み得るが、それでもこのバリアが破壊された世界を経験した観客は、もう今までの世界に居られなくなるのは間違いない。視覚以外で世界を知る様を人工知能と関連付けるシーンは、これからの未来を生きるヒントにもなるかもしれない。

この映画は、監督の映画内で山寺宏一がアフレコで使う「ああ見えてない、それがどうした。」というセリフに帰結する気がする。
見えないことがそんなに不思議なのか?見える我々は本当に優位なのか?
色々なことを考えさせられる素晴らしい映画だった。
イホウジン

イホウジン