イホウジン

スタンド・バイ・ミーのイホウジンのレビュー・感想・評価

スタンド・バイ・ミー(1986年製作の映画)
3.5
「男らしさ」の亡霊

ノスタルジーの記号が散りばめられているので思わずそちらに気が向きがちだが、内実をよく見てみると、底知れぬ虚無感に全体が覆われていることが分かる。それを象徴するのが、登場人物の旅の目的である「死体」の存在だ。
子ども×冒険という掛け算であれば、通常なら夢や希望に溢れた青春活劇になるのだろう。しかし今作はそのベクトルの異質さによって、楽しいながらもどこか刹那的,破滅的な空気感を帯びることになる。その要因として考えられるのが、往年のマッチョイズムが提示する孤高な男という理想像と、それが必然的に内蔵することになる孤独感と死の感触である。例えば主人公の兄は、スポーツの才能を発揮しかっこいい男性像を体現していたのに対し、本人はそれに対するコンプレックスを抱いていた。またメガネの少年は、戦争で負傷した父を想うあまり無謀な行動に出るようになってしまった。彼らの悲劇的な状況を作り出しているのは、あの田舎町の住民たちの底にある、「男らしさ」への無根拠な信頼だろう。あの町においてそれが正しいからこそ、アイデンティティの不確かな子供たちは無謀や乱暴,死への哀愁など、その意味を履き違えるのである。
終盤に向かうにつれて、特に主人公を中心に、そんな状況からの脱出を試みようという話が出てくる。そして、その手段としても再び「死体」が重要な役目を背負うことになる。死体を前にした4人の行動は、まさにあの危険な旅を通じた子供たちの成長を示すものとなっているだろう。

ただし、マッチョイズムや子供たちの孤独について、映画としてどこまで意図的なものとして描いていたかは疑わしい。結果的にはそう解釈できるだけであり、物語としてそれが中心になっている訳ではないからだ。そのうえ、前述の通り、今作はノスタルジーの記号で世界が塗り固められているため、気を抜けば思わず男らしさの保守的な考え方に捕らわれてしまいそうになる。過去への批判と過去への哀愁は、この映画において常に隣り合わせだ。
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