ニューランド

家にはいたけれどのニューランドのレビュー・感想・評価

家にはいたけれど(2019年製作の映画)
4.5
 シャーネレクは10年来の大ファンで、4年前の初来日には狂喜したが、その一ヶ月後彼女と同い年の最も信頼を置いてきた、シャーネレクなぞ知る由もない知り合いが急死した。そして今回の再来日、髪が真っ白に近くなってて、もう一方は生きてたらどんな風に老いを迎え入れてたろうと思うと感慨深かった。相変わらず旧い日本女性の様に細やかで物腰柔らかく分かりやすい、相手を重んじるトークで、この整理し難い·しかし感銘は並でない強靭で澄み切った作品の、理解や愛すべき存在感動に進めた。
 前作から無駄を削ぎ落としたスタイルはまずブレッソンを想起させ、小津のさらなる厳密さ、80年代ゴダールの多面日常鋭くバランス取る批評精神を感じてく。それに留まらない表現としては肉を削ぎ落としすぎた、別のアプローチの絶対であり、極北だ。歓迎すべきかも判別出来ない内に、高揚と冷徹さが与えられる。カメラを振る移動は2·3回のパンティルト位で、後は歩き·自転車の横フォローや車窓長め(稀な事にかましく音楽が被る)等構図は崩れず、白い壁や柱が色を拒むように厚く柔らかく囲み·白め陽光がより柔らかく影·グレーの微細なグラデーション与える、美術や切取り(俯瞰め等の)画面に、台詞や動き少なく立ちっぱなしめの人物·足元アップめや下半身·手元を絡め·撮り、人物は画面外に出入りするが暫くの無人は当たり前。角度の取り方と連関の垂直性は少なく、鋭く自然さ守りつつの斜めめのやや狭さ中心。大事育て掲げての男女の2人の子供と対世界の細々(自転車買いに迷ったり戻したり)にヤキモキを貯めてる未亡人を中心に、子供ら学校の『ハムレット』稽古の台詞の日常侵食や、若いカップルの葛藤·一体戸惑いが、自由に自然に行き来、編まれゆく。取分け前半はブレッソン·小津·’80年代ゴダール調の最高モデルを示してゆくが、自然にある日常重ねに避けられない取り乱し·抑えられないものが現れ、思わぬ関係性·力の高まり変調とも見られ、後半から屹立してくるのかと思わせ、一般映画捉え可能とも構えさせる。が、それでも、全体枠は壊れず·寧ろ維持が独自堅調を拡げ、華奢も壊れぬ世界存続が明らかに示されてく。激しめ車窓流れと音楽高まり·母子3人の病室ダンス快適(長男怪我中)·友人異国映画監督にその作の「演技の嘘と生(臭さ)·扱う死の持つ(動かせぬ)真実·病人励ます役者のシーンの最悪·生死の逆転」「真実共有の不可能·感じとり止まり」·路上歩きで興奮語り止まらぬ母·子供らに怒りと拒否止まらない母にあくまで触れくる子らと更なる怒り繰り返し·らの燃え燻り噴き出すハイボルテージが続き(子供らの『ハムレット』のオフェーリアや決闘シーン等の肉体化、若いカップルの「孤独の必要·必然」「愛は存し救えるか」語りらが間置いて点在してくるが)らから、台詞量·動作感情巾が目立ってくる。しかし、それが内容的にもリードしてく訳では無く、それぞれのシーンの観てる側への射し込むニュアンスは差を生じない、埋め合せでもないが。全体を不思議なバランス·流れ·関連が作られゆき、奇妙もこの上ない手応え、普通映画では与えられない、透明で手の届く·近く高揚する意識の位置を与えてくれる。そして初終を、兎を捕らえ食い寝入る(何かに当たり死?)犬を見守るロバが括る(兎追い交互は速めパン)。童話の噛みごたえになる。
 観てても解るが細かく完璧に書き込まれ、完璧に肉体化されたシナリオ·演出が存在するが、その塗り込め·生命吹き込みが、台詞にあったように「極め付けが解放を」生んでく。
 しかし、得難く大事にしたい、このなりふり構わない高揚·孤独の相手にも伝わる自覚の素振りのパートは、真の世界のバランスに必要と分かる。作品の、トーンの屹立続きは、別のあり方で小津の様に聳えてる。慕う子らを怒鳴り撥ねつけ自分の憤りの波に従う延々有り様、そうなる要因の励まし手の肩廻し·手触れ求めの子らの執拗さは、泥沼化と接点の不在を詠うのが当たり前が映画一般なのに、より厳しい対立ではないをぶつけ合う事態を·本来を生んでく過程とする本作。決まり事を打ち破る意識の絡まりが·自発決まり事となるべく捉え続けてく(息子の学校での意識的不和や娘の母尊重越えた走り、の悪意外から始まり)。小津意識に留まっでない。
 この驚異なのか、破天荒なのか、特異に緻密な脚本は、箱書き等無く、頭から書き進めたは、当初の話しぶりから分かったが、出来るのかと思わせられるが、確認の質問への答えだとイメージ括りを大事にし、それを殺さない繋ぎとして順に編んでゆくようだ。
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