KnightsofOdessa

システム・クラッシャー/システム・クラッシャー 家に帰りたいのKnightsofOdessaのレビュー・感想・評価

3.5
[システムなんかくそくらえ!] 70点

"システムをめちゃくちゃにする者"という意味の題名を持つ本作品は、思い通りにならないことがあれば喚き散らして暴れまわる暴力的で野性的な9歳の少女ベニの暴走と、それを止めようともがくシステム側の大人たちを描いたノラ・フィングシャイトの初長編作品である。こう書いてしまうとわがままな少女と役人のバトルという月並みな様式に単純化されてしまっているようにも見えてしまうが、大人たちはなるべくベニに寄り添おうとして、ベニはそれに答えきれずにはち切れ続けるという誰も悪くない悪循環の映画なのだ。ちなみに、"Systemsprenger"というのは"どこの施設にも引き取られない子供"という隠語でもある。フィングシャイトは前のドキュメンタリー撮影中にベニと同じような境遇の少女に出会ったのが始まりらしい。

冒頭、体中にセンサーを付けて謎の検査をするベニに勿論異常はない。しかし、凶暴なベニに手を焼いている母親にとっては"何か異常がある"方が心が休まるのかもしれないとさえ思ってしまう。その手法の良し悪しは考えないことにして、それを"治せるかもしれない"という希望は持つことが出来るから。そして、幾度となく繰り返される暴れる→拘束→検査・投薬という流れは、自分に何か悪い部分があるに違いないという自己催眠や何をしても許されないという自己評価の低下にも繋がってしまう。そして、そんな圧倒的に大丈夫でない状況なのにも関わらず、大人たちから"大丈夫だよ"と声をかけられることで期待に応えられず、自分を守るために暴れだす。映画は我々の忍耐力を問うかのように、手を変え品を変え爆発し続けるベニをぶれぶれハンディカムで映し続け、それは荒々しい編集や音楽映画そのものにも感染していき、周りの大人達が目に見えて疲弊していくのを共有していく。

そこに登場するのは、学校での生活や投稿を補助するスクールエスコートのミヒャだ。彼はベニのアンガーマネジメントを試みるが、明らかに自分も元々怒りに苦しんでいたことが分かる人間臭い男で、ベニは彼に自分を見出していく。興味深いのは、やりたくないことに対してベニが癇癪を起こすと、ミヒャは挑発して勝負をしようと言うのだ。相手を同等として捉え、捉えさせることで母親や同級生、担当の医者たちから叩き込まれた劣等感を少しずつ溶かしていこうとする。そして、小さなことを完遂させることで、達成感を自己評価につなげようとしていく。

興味深いのは、シェルターの担当者や精神科医、ソーシャルワーカーなどの大人たちが会議を行ってベニの未来について話し合うシーンだ。彼らは旧来のシステムに捕らわれている一方で、ベニのためにルールを捻じ曲げたり、別のシステムを作ったりすることでベニを社会に送り出そうとしているのだ。そして、ベニは旧来のシステムは勿論のこと、彼女のためのシステムも暴力的に破壊していく。

★以下、多少のネタバレを含む

しかし、ミヒャは立ち入りすぎてしまったせいで、ベニとの関係は親子のようになってしまった。彼女は親からも周りの大人達からも愛されていないと感じているので、あまりにも簡単にその枠に収まってしまったのだ。繰り返しを多用しすぎてしまった本作品は、広げた風呂敷が畳めなくなるまで広がってしまったことを自覚しながら、転がりだした反復の反復を止められないかのように、圧倒的にガス欠感の漂うラストに突進していく。安易な解決が出来ない題材なのは理解しているが、解決する気がサラサラない不発感は如何ともし難い。

ミヒャと共に訪れた山でベニが"ママー!!"と叫んでいたのが一番辛かった。母への愛はどこにも反響せず、決して返ってくることもなかったのだ。唯一信じていたミヒャからも裏切られたと感じているベニにとって、あのラストは必然なのかもしれない。
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