接続設定

ミッドサマーの接続設定のネタバレレビュー・内容・結末

ミッドサマー(2019年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

この映画を表面的にわかりやすく言えば、土着の宗教に巻き込まれる若者達のホラーという説明が端的だけれども、単純にホラーかというと、そんなことはなく、様々な相反する要素やアンビバレントな要素が盛り込まれ、自分はどこまでを受け入れられるか、あるいはどう捉えるか、あるいはどこに居るのか。

様々な二つの要素の中で、曖昧な中に取り込まれていくところがとても魅力的だ。





■世界倫理の交わりによる曖昧さ
「クリスチャン」なんて、いかにもキリスト教を想起させるような名前や、「マーク」といういけ好かない白人キャラクターの表情のアイコンが最高な、個人主義エリート主義資本主義、あるいは近代的な現代的な西洋価値観の世界のサイド「アメリカ」の人間達と、古く長い伝統を持ち、ペイガニズム土着信仰的で、西洋近代から見たら、野蛮で残酷な文化や価値観の世界のサイド「ホルガ」の人間達が交わる。

物語の大筋は、「アメリカ」が「ホルガ」に訪れ、徐々に明らかになっていく異文化にショックを受け、あるいは巻き込まれていく流れだが、「ホルガ」が単純に野蛮な土着民族のようなテイストで描かれないところが、まず世界観を曖昧にさせる興味をそそる。

むしろ「ホルガ」の人達は、皆 清潔感のある白い服を着て、金髪碧眼。さらには、とてもフレンドリーで礼節も心得ている。野蛮さで言えば、むしろ訪れた「アメリカ」の方が、客観的に一歩引いて「ホルガ」を研究対象として眺めているようで、高慢かもしれない。

「アメリカ」は「ホルガ」を辺境の共同体やカルトとして見て、自分達とは異なるものと距離を取っているが、「ホルガ」はそんなことはなく、むしろ積極的に受け入れようとしている。

そして、「ホルガ」の西洋から見て残酷にみえるものも、「ホルガ」は悪意や害意、あるいは明確な攻撃性や暴力性を持って行われるのではなく、それは「ホルガ」の秩序であり、「ホルガ」の倫理ではおそらく正しいとされることだ。

単純に言ってしまえば、価値観や倫理観の違いということになるが、西洋的倫理に反することを行っている「ホルガ」は友好的で紳士的なのに対し、西洋的倫理を持っている「アメリカ」は、西洋的倫理がある種正しいものであるということを前提にしているからこそ、ホラーやパニックといった恐怖、あるいは混乱が湧き出てくるのが面白い。

これはもしかしたら、「ホルガ」から見た「アメリカ」は、「ホルガ」の倫理を理解する知能を持たない… 例えるなら、初めてテレビを見てパニックに陥る原始人のように見えるかもしれない。

ミッドサマーという映画を見ている私達は、「アメリカ」サイド、つまり主人公達の価値観にライドして、物語を見ていくため、「ホルガ」が異質に見えるバイアスが掛かっているかもしれないが、見ているうちに、その「アメリカ」サイドの倫理が徐々に徐々に曖昧になり、あるいは「ホルガ」に傾くのか、傾かないのかという、交わりによって倫理が曖昧になっていく感覚を味わえるのが、本作の魅力のひとつだと思う。





■感覚の曖昧さ
本作の舞台は、スウェーデンの夏至祭となるが、その時期的な気候である「白夜」のおかげで、昼なのか夜なのか、あるいは何日経過したのか、時間間隔が分からなくなるところが、現実と虚構が混じっていくようで、作品の曖昧さ加減に拍車をかける。さらには、作中に幻覚を誘発する飲み物が頻繁に登場し、それを摂取したことで、実際に視覚効果として、植物がうねうねと動いているような幻覚を見せたり、主人公ダニーの場合であれば、トラウマを幻覚として見せたり、時間間隔だけでなく、視覚感覚としても、狂わせてくるテクニックが非常に特徴的。

作中で登場人物達が「まるで異世界だ…」と言葉にしていたが、北欧の独特な美術においても、その効果を高めるし、映像の作り方から見ても、神のようにそびえ立つ崖、一点透視で捉えられたテントのような神殿、あるいは食事の風景など、美術画のような美しい画づくりの点でも、現実なのか異世界なのか、わからなくさせてくれる。

そしてさらには、牧歌的で平和な、天国を想起させるような、原初の幸福を享受できるような場所でありながら、そこで西洋的観点の残酷が行われていくという展開も、天国なのか地獄なのか、わからなくさせる。ビジュアルは天国なのに、そこに漂う不安にさせる不穏な空気や雰囲気も、この曖昧さゆえに体感できる、独特の魅力だ。





■繋がりと孤独、人間関係の曖昧さ
あくまで主人公ダニーの視点にとっての曖昧さになり、ラストにも通ずる曖昧さになってくるが、「アメリカ」サイドに居るダニーは、家族を失って孤独であり、恋人やその男友達からも半ば厄介者扱いされ孤独。しかし、電話やメールでは繋がっている。いや、物理的に繋がることは出来ていても、精神的に繋がることは出来ていない孤独に苛まれている。
しかし、ダニーが訪れた「ホルガ」の人達は、快く受け入れてくれるし、物語が展開するうえで、ダニーが女王となった際には、彼女を崇め奉って大切にし、さらには極限の悲しさに打たれた時には、本気で一緒に悲しんでくれる。「ホルガ」の人達は、彼女を“家族”だと言ってくれるし、ダニー達を招いたペレも、“本当の家族”という言葉を口にし、ダニーの気持ちが分かると積極的に受け入れようとしてくれていた。
「ホルガ」の人達は「アメリカ」的には残酷野蛮かもしれないが、ダニーからすれば、自分に孤独や苦しみを感じさせる原因となっていた、いわば“負の繋がり”を断ち切り、ダニーの心を満たしてくれるものを与えてくれているということを考えると、彼女が最後に笑顔になるのにも、納得できる。それがたとえ西洋倫理的に受け入れられないものだったとしても。
映画を見ている私達は、いわばこのダニーにのっかって、ダニーの感覚にのっかって映画を見ていくことになるわけだが、ダニーの繋がりと孤独の状況に乗っかることで、西洋倫理から連れ出され、「ホルガ」の倫理へと向かう中で、繋がりと孤独が変化する中で、混乱と恐怖と現実と虚構の曖昧さの中で、人間関係の倫理の状態の曖昧さを楽しむことができる。





ミッドサマーは、多様性やグローバル、繋がりや孤独といったキーワードが多く目につくようになってきている現代で、では果たしてどこまでを受け入れられるのか?あなたはどこにいるのか?といったようなことを、試されるような、あるいは自分の中の「ものさし」がどういう形をしているのか?どういう長さの価値観や定規を持っているのか?ということを、感覚的に、あるいは意識的に無意識的に、気づかせてくれる、あるいはモヤッと引っ掛かりを与えてくれる。
そんな曖昧で奇妙で、ショッキングで最高なカルト映画でした。
接続設定

接続設定