おさかなはフィッシュ

わたしは光をにぎっているのおさかなはフィッシュのレビュー・感想・評価

わたしは光をにぎっている(2019年製作の映画)
3.5
よみがえる記憶。
小学四、五年生の頃、下校中のアスファルトの上で「小学、中学、高校、大学。こんな日々があと十二、三年も続くのか」と空を仰ぐ。幼心にも平坦な毎日に倦んでいた。
大学四年時の三月も半ばを過ぎた頃。そのことをふと思い出し、永遠に続くようにさえ思われた日々にも本当に終わりが訪れたことに、目から鱗が落ちるような思いがした。そして、これから先、それを知っているのと知らないのとでは過ごし方も変わってくるのだろうと漠然と感じた。

町も人も、いつかは終わりを迎える。
そのことを知っている幸運か幸福かを噛みしめ見送った後は、少しの荷物をその手に持って次の場所へと向かう。



もう一つの記憶。
大学時代、貝のようにおとなしい教え子の行く末を案じたのか、「フランスでは話さないのはそこにいないのと同じ」と教授が言う。我が身を省みつつも内心「日本に生まれてよかった」と胸をなで下ろす。

映画は主人公が言葉を獲得する過程であった。
見て、聞いたものが、その口から発せられるまで。稚拙な喃語が、いつしかくっきりとした輪郭を持つ。言葉のはたらきは自分自身。言葉で世界は切り拓かれ、身をおく場所が作られる。半人前が、世界の成員として迎え入れられる。ハッピーバースデー、祝福の瞬間。

聖書の一節が思い出される。「神は『光あれ』と言われた。すると光があった。」。「はじめに言葉ありき」、言葉を知って世界が形作られるのである。



冒頭、後景で泰然と大地に根を下ろす山裾の広さに、主人公と映画に対して安心を覚える。
取り立てて誇るでもなく、あるいは気付いてすらいなくとも、確固たる生まれや育ちは異郷において自己存在を支える柱となる。

上京ものとしては、スッポンに血の盟約か?エチオピア。奇妙なコラージュの夢。下町であっても都会は都会。シュルレアリスムはフランスの片田舎では生まれなかったであろう。除名の横行する芸術運動とは異なり、下町の一夜は懐が深い。



クライマックスで、映画が突如自走を始めたので驚いた。私はいったい何を観たのだろう。根源へと近付く気配がした。切断面の連続。かつてそこにあった命、新しく生まれる命。それはひとりでにーー。



ジャック&ベティ! 不意打ちで思わず声が出そうになった。閉館しない映画館で映画が観られて幸せだった。(札幌のディノスシネマズも移転先が見つかったらしい。よかった。)

パーカーとロングスカートの丈感が自分の部屋着と似ていて、勝手に親近感を覚えた。もう少し長いか短いかした方がおしゃれでも、あれでいいのよ。
シネマ・ジャック&ベティにて鑑賞。