これでもまだ「個人」が悪いというのか?
"夜のピクニック"シーンの切なさがじわりと胸に残る。終始涙が止まらなかった。
2010年代の終わりにこんな映画が生み出されてしまったことにひどく心をやられた。ほんとうに良くなっているのだろうか、人間は。
フォックオフ、フォックユー
コックニー訛りのカースワードが乱発され、荷物の配達先だろうが贔屓のクラブチームをコケにするヤツは許さない。描かれるのは紛れもなくUKのワーキングクラスストーリーだ。しかしもはや国は関係ない。
自助努力は否定されるものではない。それは確かだ。
今作の監督であるケン・ローチも努力の末労働階級出身ながらグラマー・スクールに合格し、オックスフォードで法律を学んだ賢人だ。
しかし彼がそのようなチャンスを得られたのは、1945年発足の労働党政権が推し進めた社会制度改革と、それを支持した市井の人々の互助努力の結果でもある。
この映画では終盤に描かれ、ミスタービーンではローワンアトキンソンがコミカルに映し出したりもした、英国の無料医療サービスNHSも、問題は多いにせよ、地べたを這いつくばって生きているワーキング・クラスの人々の助け合いのスピリットの上に成り立っているといっても過言ではないだろう。
しかし今作では、過去のケン・ローチ作品ではわずかにでも描かれた、「コミュニティ内での思いやり」みたいなものはひたすら後景に追いやられている。それほど現実は切迫している。
かつてサッチャーは言った。
「社会なんてものはない。あるのは個人と家庭だけ。」
その個人が家庭を想えば想うほど疲弊していく"社会"。
サッチャーが死んだ2013年にレフト・ユニティという極左政党を立ち上げたケン・ローチが引退を撤回してまで描いた本作は、「資本主義社会に警鐘を鳴らす」などという生ぬるい表現ではとても収まりきらない、明確な社会制度・経済基盤の変革を訴える極めてストラグルな映画だ。
個人的には極端な思想にはなるべく意識的に距離を保ってきたつもりだし、右にも左にも振り切りたくはないのだが、今作が浮き彫りにする現実には一刻も早く対応しないと本当にまずいという事は事実だ。
やばい。メンタルヘルス的にもやばいモードになってきた。