たけのこ

東京パラリンピック 愛と栄光の祭典のたけのこのレビュー・感想・評価

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(タイトル作は未鑑賞です)
東京2020パラリンピックの解説でもしばしば使われた「健常者」という言葉に違和感がありました。

その言葉の意味は、健やかで通常の、ということだと思います。そうすると「健常者」でない障害者は、健やかでもなく通常でもない人になってしまう。

「健常者である我々はこちら側の人、それ以外の人はあちら側の人」みたいな垣根を作ってしまう良くない言葉だと思います。
パラリンピックでの姿を見れば、彼らが人間として健やかであることは明らかですよね。

そもそも「通常」とはなんだろう?
はっきりと分かる障害がない人にも、運動が苦手な人や精神面で不安定な人などいろんな人がいます。そのどこまでが個性であり、どこからが障害や病気なのか?

たとえば極端に人見知りな人がいたとして、そのどこまでが「通常」であり、どこからが発達障害なのか?
そう考えると「通常」であることとそうでないことにはっきりした境い目はなく、「通常」とか「普通」とかはもともとシームレスな概念であると考えるのが自然です。

相手に障害があろうとなかろうと、その人の持つ個性をお互いに尊重する姿勢が大切なのだと思います。
たとえば障害者に対しては表向きの理解を示すような人でも、相手が「健常者」であればその個性を認めずに「健常者たるものかくあるべき」という画一的なモノサシを当てはめようとすることがないだろうか?

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オリンピックとパラリンピックは一つの大会にできると良いですね。

パラリンピックには「クラス分け」という考え方があり、たとえば陸上100mの視覚障害では、障害の重さでT11からT13まで3つのクラスに分かれています。

ここに視覚障害のない人のクラスを「Tゼロ」として加えれば、そもそもオリンピックとパラリンピックを別々の大会として開催する意味はなくなると思います。
今は「障害のない人のクラス」だけを括り出してオリンピックという別の大会にしていますが、障害のない人を含めた障害の重さでクラス分けする一つの大会として開催する考え方です。

「パラリンピックにはオリンピックとは違う特別な準備がいるから分けているんだ」という意見もあると思いますが、たとえば競技場や施設を作る時には最初から障害のある人が使うことを前提として作っておく。障害があることを特別にしない。それはスポーツに限らず社会全体のインフラ整備にも通じる考え方だと思います。
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