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『もうひとりの人』に投稿された感想・評価

魂が震えた!!! 3時間39分のほとんどを泣きすごす!!!

今年、『私の20世紀』『サタンタンゴ』というハンガリーの二大最悪作(特に7時間18分の問題作サタンは、そんじょそこらの粛清にとどまらずファラリスの牡牛刑を宣告したい感じ)を観ちゃったせいで私は、これまで馴染みのなかったハンガリーっていう国に今後も一切興味持つことはないだろうな、ハンガリーキライ、と気持ちを早めの木枯らし?に任せてた。
そんな折り、京橋の国立映画アーカイブで「ハンガリー映画特集」やってるってのをマリアンテナがキャッチ。こうなったら、嫌う前にハンガリーと一度徹底的に向き合ってみようかしらん、とわざわざ休暇をとってこの “30年ぶりに日本で上映されるハンガリー史上最高傑作” を観に行った。映画のためにそこまで命を削る私は何者なのか、そろそろ自分でわからなくなってきてる。。。

本当の正義を、人間の尊厳を、問う。じつに濃いドラマだった! 枢軸国側にいて混乱にも巻き込まれた第二次大戦中(前編)と、十年以上経ってからのハンガリー動乱の時期(後編)と。祖父・父・息子の三世代かけて「殺すのも殺されるのもイヤだから、自分は武器を持たない」という険しい細道を発展的に行く。険しすぎる。
「もうひとりの人」という題の意味。この自分と同じ一人の他者を、殺したくない。敵は、敵じゃなく、一人の人間。そう説明される。
前編の途中、まだほんの数十分のところで私は瞳が濡れた。以後、前編の終わりまでずっとずっと静かに泣いてた。もっと長尺でもいいと思った。こういう中身にだったら、10時間以上だってつきあえるよ。
見せつけるための技じゃなく物語のための技だけがいろいろ的確に続いてゆく。
アンティー(父)、トルダ(仲間)、レーティ(悪役)、ヤコバ (悪役) 、ユリ(妻)、マールトン(老人)、祖父、幼いアンティーjr.(息子) 、少女、、、役者さんたちの顔がみんなドラマチック。

10分休憩のあいだ、トイレで「凄い作品ですね。これ凄いですよ」と周りに話しかけたくなっちゃった。

スピーディーめに進んだ前編と少しちがって、ゆっくりさのある後編に。モダンにつながる普通っぽさ? 凄くはなく? と思いきや、そのハンガリー動乱編も、途中から凄味を増す。何せ、主題が「人間の尊厳」だから。またまた私は泣きっぱなしになった。
敵(ドイツ&矢十字軍)を描きやすいから敵の顔をはっきり描いた前編と違い、後編ではソ連(&ハンガリー政府・秘密警察)を敵として描くことがまだ憚られた1988年映画だから敵の姿がなく銃弾の雨ばかりが敵になってる。それでかえって主題の独自性と普遍性が同時に鮮明になってるところが、いいみたい。
どうなるか予想つかなかった中、意外としか言いようのない最終展開。大団円などあるはずないのだった。3時間39分が終わった。エンド後に拍手が当然のように鳴り響いた。
地獄を終わらせるのは、私たちみんなの仕事だ。すなわち、この映画は全体が巨大な “前編” にすぎないのかも。真の “後編” は私たちに託されてる。その意味で、ドストエフスキーのあの遺作に近い。

『サタンタンゴ』への憤慨が起点となって私は本作に出会えたのだった。人生に無駄は一つもない。サタンに感謝。
ところで、馬を殺したり犬を銃撃したりのシーン、たぶん本当にやってる。サタンの猫いじめももう時効にしてあげよう。のちの『心と体と』の鹿なんかもふくめ、ハンガリー映画は動物撮りが容赦なくハイレベルなのかもと思ったりした。本作では、動物たちに人間たちが全然負けてないのが嬉しい。

ところで、殺し合いを拒否る主人公(大学生となった息子)が、恋人に張手をかましたシーン。そのほかも、全体として女性たちの言動原理にちょっぴりだけ窮屈さを感じた。演技はすばらしいけど。どんな人格者だってそりゃ完璧に平和の天使ってことはないから一つも暴力振るうなとは言わないけど、一言「あれはゴメンね。戦争じゃない日常の暴力一つも、いけないね」と男が女に謝ってくれるセリフがあれば、満点にした。

[去年亡くなった監督の、息子バーリン・レイ・コーシャさんが挨拶に来てた。日本人妻とのハーフだそうな。かっこよかった。この映画は父の遺言です、と。国立映画アーカイブ]
色んなことを考えさせられた作品。

ハンガリーが舞台の戦争映画は今まで観た記憶が無くてすごく新鮮!この作品は1944年の敗戦色が強くなり始めた頃のハンガリーで前線から命辛々逃れた兵士のその後。

戦時下であっても父から子へ引き継ぐもの、受け継がなければならないものとは何か。父親のアンティは武器を持つという行為が自分と他者にどういう結果をもたらすのか息子に伝えようとする。

武器を持たないといえば『ハクソー・リッジ』が思い浮かぶ。『ハクソー・リッジ』は戦場で武器は持たないという信念を貫いた兵士の実話。個に焦点を当てた英雄伝といったところがいかにもアメリカ映画っぽく、エンタメ的な演出も多々あった。

対してこの作品は暴徒化する学生たちを通じて、武装化することは無益であるというメッセージを未来の国民に伝えたかったのではないだろうか。両作に資本主義や社会主義といったイデオロギーが反映されているのかは分からないが、個人的にはメッセージ性の強いこっちの作品の方が断然好みだった。

後半のハンガリー動乱の激しい市街戦シーンを観ていたら、激しさを増す香港のデモ活動のことが頭を過ぎった。劇中で「武器を持たなくなるのはまだ先だ」といった言葉が出て来たが、香港は雨傘運動を始めその先駆者。香港でこれ以上被害者を出さないためにも、市民の武装化がエスカレートしないことを切に願う。昔も今も武器は悲劇しか生まない。
kyoko
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二部構成・219分という大作はハンガリーの歴史が分からないとちょっと厳しい。特に1944年の大戦末期を描いた第一部は、ナチスドイツとの同盟のもと戦う対ソ戦線に、パルチザンからの襲撃もあったりして歴史力の乏しい私はやや混乱気味。
敵前逃亡を図ったとしてナチスによる軍事裁判にかけられた元教師の男は、すんでのところで処刑を免れて逃亡し、妻と息子、妻の父親が暮らす田舎の家へと帰ってくる。妻の父親はすでに憲兵によって連れ去られていた。仲間の裏切りによって追っ手の影がせまる中、彼は武器を持たずに家を出た。

第二部は1956年のハンガリー動乱の決起集会から始まる。父を失った息子は仲間たちに武器を持つことの愚かしさを説くが、彼らは1848年のハンガリー革命で闘った詩人ペティフィをシンボルとして、命を賭けることに大義があると信じて疑わない。ブタペストの街では大人も子どももみな銃を持ち、戦車が行き交っている。


武器を持つ者は潜在的な殺人者となり、また犠牲者にもなる。
私はどちらにもなりたくはない。
自分も相手も同じ人間だ。
だから私は武器を持たない。


同じ信念を持ちながら、それぞれの時代に生きた父と息子は結局同じ顛末を迎えてしまった。
武器がある限り人間の尊厳は守られない。
もうひとりの人は「見えない敵」になってしまった。
理想と現実が背中合わせになった皮肉な結末に言葉がでない。
(その先にある祖父の行動にはちょっとモヤったけど)

いまだ報復を繰り返す人々がいる現代にこそ必要な作品だと思う。


昨年12月に亡くなったコーシャ・フェレンツの代表作で、日本では1990年の東欧映画祭以来の上映。
ハンガリー外務貿易省職員である息子さんがわざわざ来日して挨拶してくださった。お母さんは、コーシャ監督が1967年「一万の太陽」でカンヌ監督賞を受賞したときの通訳だった日本女性なんだそうだ。なんかステキロマンス~。