センチメンタリス

劇場版「鬼滅の刃」無限列車編のセンチメンタリスのレビュー・感想・評価

5.0
映画の内容については、実際に見てもらうこととして。アニメシリーズにも通底してるテーマみたいなものについて書いてみたい。とりわけ今回の映画については後半にそのコントラストが色濃く出ていたように思う。

テーマとしては、鬼と人間の境目ってなんなんだ?って話になるんだと思う。
何を捨てたら鬼なのか人間なのか、何を持っていたら鬼なのか人間なのかっていうような。それは、話に登場する鬼と人間の対立関係に、”ねづこ”という半鬼半人のような形で楔が打ち込まれていることに強く表れているだろう。彼女は、望まない形で鬼の力を手にしたという意味で呪いを与えられているが、人間を殺し食さないという強い決意の元で人間であることを選択してるといえるだろうか。もし鬼と人間が争わない道があるとすれば、彼女に隠されているような気もする。

求めるものの違いによって、人間は鬼にもなるし、鬼の中に人間がいたりする。人間になりたい鬼だっているかもしれない。私たちは誰もが、いつ鬼になってしまってもおかしくないような不安定な存在なんだと思う。文字通り、人間には心を鬼にするなんて言葉もあったりする。
かといって、そんな脆弱な存在である人間の何かを求めて止まない欲求を、それを求めないように強く生きることが大事だと簡単に片付けることはできない。鬼殺隊に斬られたとき、どのような経緯で鬼になったのかが語られるが、人間が鬼になってでも欲せずにはいられなかったものを、自分だったら…といつも考えてしまうのである。人間とはどうしてこんなにも弱い生き物なんだと人間を呪い憐れむ鬼の気持ちになってる自分がいるのである。

これは、構造的には人間と鬼だけでなく、求めるものの違いによって憎み合う、殺し合うほど対立してしまうという現実世界における構図としても当てはまるものになってるといえるだろう。
そもそも、憎み合っているふたつのものは遠く離れているようでいて限りなく近くにある。ひとつのものから生まれたといってもいい。近いから憎み合うのだが、それが悲しいのである。何がふたつを遠くあるように見せるのかは、ふたつのそれぞれに求めるものの違いによるのであろうが、遠いようで近い存在だということに気づいたとき、なんともいえないやるせなさを感じずにはいられないのである。
自分は人間から遥かに離れた強い存在になったと自負してるものを鬼というならば、実はふたつは遠くて近い存在だと気づけるものを人間と呼ぶのではないだろうか。

さらに言うならば、新型コロナの蔓延で経済か感染か、そして少し前から続く自国ファーストと世界的な連帯の対立、そうしたふたつのものの対立が遠いように見えて実は限りなく近いものだということを訴えているような気がしていて、映画でいうならば、主人公である炭治郎が抱く”ねづこ”という存在の意味を思い起こさねばならないような、今の時代性を反映した映画ではないだろうかと私は思っている。