センチメンタリス

三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実のセンチメンタリスのレビュー・感想・評価

3.0
芥は、革命は大いなる詩であると言った。

西脇順三郎の『詩情』という文に次のような言葉がある。
「人生の通常の経験の関係の世界は
あまりいろいろのものが繁茂してゐて
永遠をみることが出来ない。
それで幾分その樹を切りとるか、
また生垣に穴をあけなければ
永遠の世界を眺めることが出来ない。
要するに通常の人生の関係を
少しでも動かし移転しなければ、
そのままの関係の状態では
永遠をみることが出来ない。」

西脇のこの言葉は、作中の芥の「関係絶ったところから、その逆転すんのが革命じゃねえのか!バカヤロウ!」という言葉に重なる。
つまりは、関係性を絶ったところに現れる生垣の穴、私たちが普段どっぷりと浸かっている関係性を切断したところに現れる「事物」に触れることが、何かを生み出す創造の本質だということなんだと思う。
それが、芥が言う「革命は大いなる詩」の意味だと言える。
芥によれば、サルトルがその事物に触れる方法としてイメージを掲げたが、それは失敗に終わり、三島自身も自らを規定する関係性(例えば、日本人であること)の限界を超えることができない、それによって三島さんは敗退してしまったと語る。

三島はそれでいいんだと、自分はそうした関係性から逃れたいとは思わないと言っているわけだけど、芥からすれば、関係性(天皇や日本人など)に終始して、むしろそれに一体化して殺られたいという三島の態度は一種のオナニズムとなる。

芥の言わんとしているのは、詩的構造を基にした認識論であり、関係性を切断したところに現れるリアリティの認識方法なのではないだろうか。三島の場合はあくまで、ナルシシズム的な享楽、想像的な自我の確認作業となってしまっているのかもしれない。

私たちが、リアリティを感じるためにはどうしたらよいのか?

本人だけに迫り来るリアリティをただ滔々と語るだけで、他者には何ら響かなくてもよいのか。芥は、三島の取りえた形態は僕らには何ら暴力的に差し迫らないと言う。(少なくとも、三島の感じていたリアリティは芥には届いていない。)
それとも私たちに広く迫り来るリアリティの感じ方というものがあるのか。

そういう話をしているんだと思った。

三島は天皇という言葉を反復的に使用しているが、戦時中の一神教的な天皇、(正確には日本における天皇は西洋的な一神教の神とは違うのだけど)、戦後に喪われた神としての天皇を取り戻すことがその悲願だった。まさに、喪われているものを取り戻すという脅迫的な欲求に突き動かされての自死だったわけである。喪われたものを取り戻すためには、冥府に下るしかない。リアリティというのは、言葉を剥がしたグロテスクな赤黒い傷口のことである。

最後に、三島が愛してやまなかったバタイユの言葉を置いておくことにする。

人はみなよく知っている。神を信じる人すべてにとって、神は何を表象するのか、彼らにとって神はどんな置を占めているかを。そしてその場から神のペルソナを消去しても、何かが残る。空虚の場が。私が語りたかったのは、この空虚の場です。
tout le monde sait très bien ce que représente Dieu pour l’ensemble des hommes qui y croient, et quelle place il occupe dans leurs pensées, et je pense en supprimant le personnage de Dieu à cette place-là, il reste tout de même quelque chose, une place vide. C’est de cette place vide que j’ai voulu parler. (ジョルジュ・バタイユとマドレーヌ・シャプサルMadeleine Chapsal et Georges Bataill、1961年)