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ラスト・ディール 美術商と名前を失くした肖像のotomisanのレビュー・感想・評価

4.0
 日本なら中国画を嚙みこなして日本画ができて、それに加えて西洋画もやってきて、それらを受け入れる過程でさまざまな志向を持つ作家たちが個性豊かに作品を生んでくれた。おかげさまで楽しみの幅も増してありがたいことだ。ところがフィンランドでは芬画があるわけではない。かろうじて独立期の「黄金時代」にフィン族の個性を表す運動が起きたが老オラヴィに言わせればレーピンの繊細さ、つまりはロシア外光派には及びもつかない。
 そうした絵画作品の多様性の乏しさは画商世界でみな同じような絵を扱う格好なことを示唆しなかなか商売も辛そうだ。そんな中、老オラヴィは一人、五軒先のオークションハウスで出品作品にレーピンらしき一品を見つけてしまう。無署名の小さな肖像画には誰も深い関心を寄せてこない。その隙に取引を成立させればこいつは大きな儲けになるだろう。ただし、それがレーピン真作である証拠をそれまでに揃えなければ、ただでさえ左前の商売が本当にぽしゃってしまう。
 買い値の十倍を見込むオラヴィだが、一万ユーロが十万ユーロという値段はフィンランド国内でもニュースになる話ではないだろう。こんなところに何というか、老オラヴィの身の丈感が滲み出ている。崖っぷち画商最後の大勝負は金も証拠もない火の車だが、火が着くのは商売ばかりか私生活もご同様だ。長く顧みなかった家庭、妻は疾うに先立ち、ひとり娘は離婚して息子ひとりで火の車、その息子は高校で不当商行為とかで札付き扱い。見ようによっては目端が利くという事だが、これがオラヴィじいちゃんには得難い味方となってレーピン探索の先鋒となってくれる。しかし、それは事の一面、老オラヴィはどこまでも家族や家庭に目が向かない画商バカであるし、娘も孫もそのことを克服できない年寄に結局さじを投げざるを得ない。
 仕事人間の不器用というのか、仕事に嵌るしか行き場のない、情の捉え方にも情の示し方にも慣れないオラヴィが、最後の大仕事では仕事さえしくじって廃業の憂き目に合う。事業譲渡で得た一万ユーロでレーピンの仕入れ金を弁済したら残るのは贋作の疑いも残して売れ残る絵と行き場のない我が身だけだ。これは悔しいに違いない。それで首を吊るより先にバイタルが停止してしまう。死んだ老が残したものは皆娘と孫の手に余る物ばかりだから、売れないレーピンもまたそうとも知らず放出の瀬戸際だが、そこで見つかる遺言からオラヴィ最後の勝負の戦果が当面塩漬けのレーピン作キリスト像、聖像につき無署名と解釈可能、真筆かは疑問の余地ありと示される。それを孫に遺贈するという。
 その孫が足と頭を使ってレーピンと証拠立てた成果がそのままの姿、10万ユーロに化けることなく一文にもならずに委ねられる。孫が大学を出る頃には贋作の疑いも晴れているだろうか?荒れ荒れとした街はずれ、残された親子がオラヴィの遺産に何を思っているだろう。商売のイロハのイに触れたというのではない、背中しか見えなくなった父の抜け殻を葬ったというのでもないだろう。ごく普通の遺贈の品が10万ユーロなはずのレーピンで、それは最後のいさかいの種のレーピンで、祖父と共に勝ち取ったレーピンで、そのためにオラヴィは命を縮めたレーピンである。そのレーピンを手にしてオラヴィ最後の志が知れるだろうか。もう一度情の手を差し伸べなければ答えに届きそうにない。
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